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さくの先人(せんじん)たち

更新日:2015年2月2日

 さく市の先人をしょうかいします

市川代治郎(いちかわ だいじろう)

【1826年(文政9年)~1896年(明治29年)】
旧中込学校(なかごみがっこう)をたてた棟梁(とうりょう)です。中込地区のしゅっしんです。
22~23歳、宮大工(みやだいく)をこころざし、野沢中小屋(のざわなかごや)の小林源蔵昌長杢之助(こばやしげんぞうまさながもくのすけ)に弟子(でし)いりしました。
欧米(おうべい)の建築技術(けんちくぎじゅつ)を学んだ代治郎がたてた中込学校は、当時まだ珍しかったペンキ、あざやかな色ガラスが使われ、「ギヤマン学校」とよばれ見学者(けんがくしゃ)がたえませんでした。

大給恒(おぎゅう ゆずる)

【1839年(天保10年)~1910年(明治43年)】
田野口藩(たのくちはん)、のちの龍岡藩(たつおかはん)の藩主(はんしゅ)です。
28歳、五稜郭(ごりょうかく)がかんせいしました。五稜郭は五角形(ごかっけい)の突端(とったん)に砲台(ほうだい:大砲(たいほう)などを設置するためのだいざ)をおくことによって、敵(てき)の攻撃(こうげき)を死角(しかく)なしにふせぐことができる利点(りてん)があります。
西南戦争(せいなんせんそう)時の1877年(明治10年)に犠牲者(ぎせいしゃ)がでたことにより、同じ思いをもった佐野常民(さの つねたみ)とともに博愛社(はくあいしゃ)をそうせつしました。
博愛社は、のちの日本赤十字社(にほんせきじゅうじしゃ)となり、福祉活動(ふくしかつどう)に力をいれています。

比田井天来(ひだい てんらい)

【1872年(明治5年)~1939年(昭和14年)】
現代書道(しょどう)の基礎(きそ)をきずいた書家(しょか)です。
1887年(明治20年)、漢学者(かんがくしゃ)依田稼堂(よだ かどう)が野沢町(のざわまち)にひらいた有鄰塾(ゆうりんじゅく)で漢学をまなびました。
1916年(大正5年)より鎌倉(かまくら)建長寺(けんちょうじ)にすんで、新しい用筆法(ようひつほう)をはっけんしました。剛毛筆(ごうもうひつ)をつかい、筆(ふで)をななめに筆法(ひつほう:筆づかい)で「俯抑法(ふぎょうほう)」となづけました。

川村吾蔵(かわむら ごぞう)

【1884年(明治17年)~1950年(昭和25年)】
アメリカで活躍した彫刻家(ちょうこくか)です。
1916年(大正5年)、ミネソタの酪農家(らくのうか)パブストが、乳牛(にゅうぎゅう)模型(もけい)をいらいしました。吾蔵は、アメリカ・カナダ等の牧場(ぼくじょう)をまわって、7年後に『完全(かんぜん)なる乳牛模型』をかんせいさせました。この作品(さくひん)は全米牧畜業大会(ぜんべいぼくちくぎょうたいかい)で表彰(ひょうしょう)されました。

そのほかにも、さくの先人はたくさんいます。

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