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館長の豆知識(4)佐久と渋沢栄一の歴史を知りましょう。

更新日:2020年11月23日

第4回 世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち

峠を越えて

 今回は渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たちのお話です。幕末から活躍した渋沢栄一と戦国末期の市川五郎兵衛眞親(1571~1665)の子供たちが協働などあり得ないと思うは当然です。「世界かんがい施設遺産」に和訳すると「五郎兵衛の用水システム」と施設名でなく個人名で唯一登録がされた灌漑用水開発者の末裔は五郎兵衛の名前と自己献身の心の継承に努めました。用水開発者の五郎兵衛から6代目の五郎兵衛眞信(1853没)が今回の五郎兵衛となります。

 渋沢栄一と五郎兵衛の子供たちとの馴れ初めです。栄一たちは深谷から中山道を一路信州を目指しますが途中長野自動車道が藤岡から分岐して佐久へ向かうように、栄一たちも中山道本荘宿を出てまもなく埼玉県最北の霊峰御嶽山を祀る金鑽神社の前を過ぎたあたりから左に折れ、藤岡道とか小幡道ともいわれる脇道を藤岡・富岡・下仁田を経て南牧谷へ入り市川五郎兵衛家の羽沢館に逗留し、そこから一気に星尾集落・戸沢峠(星尾峠)・信州佐久という道筋を選ぶこともありました。
 それは漢詩・漢籍に深く心を寄せる栄一と尾高にとって、羽沢館の市川一族には書家、漢詩人の市川米庵・万斎がいたり、また五郎兵衛眞信の5男健吾は文政12年(1829)生れ、尾高惇忠は文政13年(1830)、健吾の弟、万平は天保10年(1839)生れ、渋沢栄一は天保11年(1840)と、市川兄弟と渋沢・尾高は年恰好も同じこともあり生涯変わらない交際を続けることになります。

地図
出典:国土地理院ウェブサイト(htts:www.gsi.go.jp/tiz-kutyu.htm)

渋沢栄一の幼なじみの市川兄弟のその後

 明治の開化期を迎えると埼玉県の利根川南岸に生まれ育った渋沢・尾高義兄弟と上信国境の西群馬の奥深い渓谷の城館で生を受けた市川兄弟は理想の郷土づくりに邁進します。
 五郎兵衛の5男健吾は嘉永3年(1850)藤岡市の折茂家に養子に迎え入れられ嘉永5年(1852)23歳のとき名主見習い、明治11年(1878)には緑野・多胡・南甘楽の初代郡長(3郡兼務で94町村を管轄)に就任、そして明治19年(1886)57歳で退任するまで35年間、幕政から明治の困難な時代、自然災害だけでも嘉永6年(1853)の大旱魃、安政6年(1859)8月関東大風雨洪水から6年間にわたる大風雨の度重なる襲来、また水戸天狗党、小栗上野介事件、秩父事件など困難なことが実に多かった時代でしたが地方行政発展のため半生をささげています。
 今に残る健吾の功績として折茂家の養蚕・蚕種製造を発展させ、その技術が世界文化遺産官営富岡製糸場の「高山社」の創業者高山長五郎を陰ながら支え発展させたことでした。

 健吾の弟、万平は渋沢家が家業「藍染」と語呂が似ているため大変熱心に信仰し渋沢一族からの絵馬が残されている「藤岡下川上愛染明王堂」がある中山道熊谷宿の本陣、竹井家を継ぎ慶応3年(1865)14代当主竹井澹如と名乗ります。澹如は大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとの親交を生かし、明治3年(1870)埼玉と群馬両県域を一つにし県名に中間地点を採用し「熊谷県」を発足させます。その後事情により分裂し現在のような二つの県となってしまっています。
 澹如の大きな功績に日本最大の河川は「信濃川」ですが、河川の幅に限って言えば「荒川」が国内最大、ということは国内きっての暴れ川でした。そのため江戸時代末だけでも安政6年(1859)から6年間続いた荒川の氾濫で熊谷地方の被害は甚大なものがありました。明治2年(1869)竹井は私財を投じ熊谷を守るために荒川に堰堤を築きます。彼は洪水から守られるようになった河川敷内農地に大量の桑の木を植え数十町歩に及ぶ広大な桑園を開拓し、地域の養蚕業の発展を図り、官営富岡製糸場の安定した経営を側面から支援することになります。
 明治3年(1870)渋沢栄一は洋式の大規模な製糸機械を導入した官営の模範工場の建設を計画します。広大な工場用地を至急確保するために苦心する栄一に、健吾、澹如は江戸時代の初め南牧発展のため地場産業として当時国内最大規模の砥石鉱山を立ち上げた幕府代官中野七兵衛が砥山代官所に予定していましたが、中野代官転任により未着手となり広大な空閑地となっていたその用地に官営富岡製糸場を建設を勧め、用地問題で計画が頓挫していた官営富岡製糸場の竣工が成り尾高惇忠が初代場長となります。
 しかし工場は完成しましたが、赤ワインを飲むフランス人の姿から「富岡の工女になると血を飲まれる」の噂が広まり、工女を募集しても応募がありませんでした。そのため尾高惇忠は自分の娘「尾高勇」を、健吾・万平も妹を、そして良く知られた話として、旧松代藩からは家老の娘『富岡日誌』を残した横田英が工女の応募を促するため故郷の期待を背に最先端の官営の工場で製糸技術の取得し日本の近代化を支えました。
 

第3回 渋沢栄一の人生を変えた幕末悲運の志士「尾高長七郎」と佐久

 渋沢栄一の従兄に当時日本で一,二の剣の使い手と言われ、また漢詩文にも優れた遺作を残す好男子尾高長七郎(1836~1868)がいます。当時の若き俊英が憂国の志士を志したように長七郎も成長するにつれ各藩の志士と深く交わるようになります。
 文久元年(1861)正月のことです。江戸城坂下門外で老中安藤信正が水戸藩士らに襲撃される事件が発生します。幕府方は長七郎もその一味だとして捕吏を深谷へ差し向けます。それを知った栄一は長七郎を守るため4里の道を駆け熊谷宿で漸く長七郎を探すと事態の危急を知らせ、取り急ぎ渋沢家が信頼している信州佐久の芳軒のもとへ落ち延びるよう説得をします。渋沢家からの依頼に応え信州佐久では木内芳軒家族が身命を賭して長七郎を匿ったうえ安全な裡に京都までの逃避行を成功させます。
 その年の暮れ、攘夷思想にかられた栄一達は武器を準備し高崎城を乗っ取り、そこから横浜外国人居留地を襲撃しようという暴挙ともいえる大事件を画策します。その時京都で最新の見分を深めて戻って来ていた長七郎は栄一たちの計画を聞き、その無謀さを指摘し必死に制止しました。その甲斐があり高崎城乗っ取り事件は未遂に終わります。このとき栄一が計画どおり高崎城乗っ取り事件を挙行していたら、計画は失敗に終わり彼らの命は絶たれ、日本の歴史は変わっていたでしょう。佐久の小さな善意が歴史を変えた瞬間でした。
 その後、芳軒は栄一達からの仕官の誘いを断り続け、束縛されない詩歌を賦す自由な日々を送っていました。しかし残念なことに明治5年(1872)8月芳軒は大病を患います。佐久では十分な治療ができないため上京し、知己たちが心配して当時としては最高の医療を施しました。しかしその甲斐なく10月12日46歳で療養先の東京で亡くなります。
 芳軒の死を悼み万感の哀惜を込め『芳軒居士遺稿集』を明治三詩人と言われた鱸松塘が出版人、大沼枕山と小野湖山が序文を寄せるなど三巨匠と関係者が力を合わせ遺稿集が発行がされます。上巻は並木梅源、下巻は依田稼堂が全校を担当しています。その上巻には「上玄夜藍香尾高君過宿今東韻」と尾高惇忠(藍香)「十七夜青淵澁澤君見訪席上同賦用上元韻」と渋沢栄一(青淵)との惜別の二首が選ばれています。詩の題に「上元」とありますから季節は旧暦の1月15日あたりでしょうか。名残が尽きない別れの情を詩に託したこの年も栄一と惇忠は命懸けで上信国境を越えてきたようです。
 この『芳軒居士遺稿集』には芳軒と生涯変わらぬ深い交友を重ねた佐久間象山が京都への帰らぬ旅路を見送った詩も選ばれて載せられています。旅立つ心からの友を見送るこの三首は『其の詩、神清韻秀』と評された芳軒の詩の神髄です。

 芳軒一門のその後です。市川五郎兵衛は50歳を過ぎてから安定した小領主の生活を投げ捨て戦乱で荒廃した佐久平復興のため常木、三河田、五郎兵衛用水の開発に挑みました。自己献身の精神は引き継がれ芳軒の高弟依田稼堂は63歳を迎えた大正元年(1911)12月、若人の教育のため乞われて象山の過ごした松代の対岸にある上水内郡組合立東部農学校(現長野吉田高校)教授を長野県から委嘱され赴任します。(昴家文書B222)
 しかし稼堂の教育への熱情も虚しく大正3年(1915)1月病を得た稼堂は65歳の生涯を長野市で閉じることになります。
稼堂の子、源七は佐久間象山について父から良く語り聞かされていたらしく残された写真(昴家文書I4-15)には象山神社など松代詣での記念写真が多いのも、激動の時代に生きた芳軒と象山の心を熱く稼堂から聞かされていた証拠でしょうか。
 

木内芳軒
南佐久郡誌より引用

第2回 渋沢栄一を守り育てた佐久と古文書の世界

 渋沢栄一は生涯に約500の企業の育成に関わると共に、約600の社会公共事業の発展や民間外交の推進に尽力しています。 その功績から肖像画が新一万円紙幣に、また2021年2月から放映されるNHK大河ドラマ「晴天を衝け」は、彼が主人公です。 あまり知られていませんがドラマタイトル「青天を衝け」は佐久市肬水地区の断崖絶壁にある渋沢栄一の詩碑「内山峡」の一節から引用がされています。

 この『内山峡』詩が掲載されている『巡信紀詩』という漢詩集は渋沢栄一と、従兄で後に官営富岡製糸場初代場長となる尾高惇忠(青淵)が家業の藍を信州へ売り込みの途上で著作したものです。そのとき栄一17歳、尾高27歳でした。現地碑文に『㐮山蜿蜒如波浪。西接信山相送迎。奇険就中内山峡。天然崔嵬如・・』と20歳にも満たない農家の一青年の栄一がセールス活動に従事しながら詩作してるところが当時の日本と佐久の文化でした。残念なことに今の人には到底理解できないので彼らの『巡信紀詩』についてPHP研究所から出版された「渋沢栄一の思想と行動『近代の創造』」山本七平著があり、そのP133に吉岡重三氏の『新藍香翁』から引用して原文がどのような調子があるか紹介しているので引用してみます。
 「序」
 我と青淵、ともに刀陰の耕夫なり。而して藍をひさぐもまた箕裘の業のみ。ただ文を論じ詩を賦すを楽しみとするは二人の私なり。今茲十月業を以て信に入る。一簑単刀、数巻の書を携え、初六日を以て行を啓く。家厳戒めて曰く。「汝行装恐らくは文人に半戦。諺に曰く『十月中旬優人と語るべからず』と」。我曰く「諾々」。拝して発す。直ちに青淵氏に至りて辞す。発するに臨みて舅氏我と青淵を戒むるもまた家厳の言の如し。(以下略)

 (口語訳) 私と青淵とは、ともに利根川南岸の農夫である。そして藍を売り歩くのも家業である。漢籍について論じ漢詩を作ること、これだけが二人の唯一の個人的な楽しみなのである。さて今年10月、この家業のため信州に行くことになった。一つの簑(みの)と単刀、それに数冊の書物を携え、10月6日に出発した。出発に際して家の厳父が次のように諫めて言った。「お前の旅装はまるで文人といった格好だ。『10月中旬(日が短くしかも農繁期)には閑人と口をきくな』という諺がある(くれぐれも詩文に心を奪われて家業を怠ってはならない)と。「はいわかりました」と答えて出発した。まっすぐ青淵君の家に行き、その家人に別れを告げた。すると出発のときおじさん(市郎右衛門)が私と青淵君を戒めたが、その言葉がわが家の厳父と同じであった。(以下略)

 この詩が書かれたのは安政5年(1858)旧暦10月なので新暦でいえば11月の初め、信州は紅葉のまっさかりだったでしょう。当時も今も東信濃には歓楽街が少なくない中、惑わされず非常に駆引きの難しい紺屋へ藍のセールスをしながら詩文の世界に没入していたという事実が大切と山本七平は記し残しています。山本七平もですが現代の佐久市民も渋沢栄一と佐久、そして『内山峡』詩について発信しているので引用させていただきました。

 佐久と渋沢栄一の関係は深く「内山峡」詩も渋沢栄一と尾高惇忠が信州への旅路で漢詩と漢籍を伝授されるのを楽しみにしていた早逝の大学者木内芳軒との深い交友のなせるところだろう。ところで当館には木内芳軒の愛弟子で佐久の先人に選ばれた「依田稼堂」と渋沢栄一関係者との貴重な記録が遺族から寄託され「五郎兵衛記念館古文書目録第八集」に「中原依田昴家古文書」「中原依田房一家古文書」として刊行がされている。教育県信州の礎が伺えるのも古文書の世界の素晴らしさだ。


 彼の回顧譚「雨夜譚会談筆記」や長女穂積歌子随筆「はゝその葉」に詳しく記されているが、若き日の渋沢栄一は真冬に佐久と関東をつなぐ脇往還の香坂峠で道に迷い疲労凍死寸前であったのを心優しい香坂集落の老夫婦の手厚い介護により一命を取り留めている。
 渋沢家では一年に2~4回商用を兼ねて信州佐久を訪れるのを通例としていた。今は上信国境は30分も要しないで越えられるが当時は大変困難なことであった。というのも中山道が天下の公道のため貨物は宿々で庭銭を払い、常備の伝馬で継ぎ送りするのが原則だった。費用と時間を節約するため渋沢家はじめ民間の物流は脇道利用が多く「信州より数十匹、重荷負い、馬士は米一斗余り背負い参り候」(文久元年 神津茂夫氏文書)のとおり佐久から大量の米が送り出され「米の道」と呼ばれた志賀村からの峠越え、北関東で生産された麻を近江商人が大量に買い付け峠越えして来たため「麻の道」とも称された岩村田から香坂峠を越えて下仁田へ至る脇往還等が盛んに利用がされていた。
 これらの峠の頂には現在内山牧場、神津牧場が経営されているように、峩々たる巌の妙義連山に接しながら香坂峠頂上付近はなだらかで平坦な地形のため旅人は目標を誤り道を迷いやすく、また「風吹峠」の別名もあるとおり冬期は暴風雪が吹き荒れ、足跡も危険な窪地も全て包み隠しそのため旅人の遭難が多発する難所でした。栄一が後年述懐しているが彼も雪中道に迷い遭難するところを香坂集落での心細やかな気遣と接待で一命を取り留めたのでした。
 市川五郎兵衛の用水開発の精神が自己献身であった様に、明治期の佐久の祖先たちも不幸な旅人に最大限のいたわりをしているのはやはり佐久の美風だろう。
 内山峡詩については公益財団法人渋沢栄一記念財団のデジタル版「渋沢栄一伝記資料」第57巻P866-868に、また市内香坂峠での苦心譚については第1巻207ページから208ページに記述があり詳しくは下記リンクをご参照ください。

第1回 妖怪の世界 ~件(くだん)と雨彦(あまひこ)~

 新型コロナウィルスの流行で今年は妖怪「アマビヱ」人気が爆発的に高まりました。「アマビヱ」が最初に登場したのは、江戸時代末の弘化3(1847)年のことでした。この頃の日本列島は飢餓と自然災害が多発し、生きていくには実に大変な時代でした。
 五郎兵衛記念館が収蔵する約7万点の古文書群に土屋芳彦家文書があります。この文書の特色は江戸時代に大流行した華道池坊を地方の人々が熱心に学んでいた活動の記録があります。
 この古文書群を残した土屋彦左衛門(1769~1839)は、かんがい用水と飲料水を兼ねて給水する五郎兵衛用水の維持管理における最高責任者を務め、その職責から用水の安定供給に資するための天象、地象に深く関心を持ち、実に様々な貴重な記録を残しています。
 土屋彦左衛門が伝え残した記録の中に江戸時代の「アマビヱ」流行に先立つこと11年前の天保7(1836)年12月に丹波の国倉橋山の山中に出現した妖怪「件(くだん)」、そして天保14(1843)年「アマビヱ」と同じ肥後熊本の海中に出現した「雨彦(あまひこ)」があります。 「アマビヱ」は「アマヒコ」の誤記ではないかという説が1999年に湯本豪一より指摘されているとおり土屋彦左衛門の残した記録は貴重なものである。
 その何れも描いた図を貼っておけば家内安全、無病息災、一切の禍を免れて大豊作になるという非常にめでたい獣であると記されています。先の天保7年は、天保の大飢饉の年であり、天保14年は北海道大地震、弘化3年には善光寺大地震というように異常気象と自然災害が繰り返えされ、稲の作付けをしても秋に収穫がなく稲藁を食べざるを得ない生きていくに非常に困難な時代の人々の心模様が伺える貴重な記録です。
 これは、異常気象で作物が実らず辛い中であっても、可能性を信じて種を蒔き続ける人々への心温まる応援歌(エール)とも読み取ることができます。

[書き下し文]
雨彦全之図
        不出来に御座候
天保十四卯五月中旬
肥後国熊本海中に
毎夜猿の如くの声
にて人を呼同家中
柴田五郎右衛門と申人見届
候処我はあまひこと申者此海中に
すむ也今年より六ケ年の間豊年乍去病人
多く人六分通り死すべき也我姿を見尋は
其難を遁れ候̻まじ姿をうつし諸国へ
しらしむべしと申候て海中にしづみ入る

[現代語訳]
雨彦全体図
       不出来で御座います。
天保十四年(1843)卯五月中旬に
肥後の国(現在の熊本県)熊本の海中に
毎度猿の如くの声で
夜に人を呼ので
柴田五郎右衛門という人が見届に行ったところ
「私はこの海中に住むアマヒコという者である。
今年より六年の間は豊年だ。しかし病人が多く出て
人々は六分通り死んでしまうだろう。
ところで私の姿を尋ね見れば、その難を逃れることができるであろう。
私の姿を写し諸々の国へ知らせなさい。」と言って、海中に沈んでいった。

アマビエ
写真2 江戸時代後期の弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)に刊行された(木版画) 京都大学付属図書館所蔵

[書き下し文]
大豊作を知らする
件と言獣なり
右は天保七申十二月丹波の国倉橋山の
山中に此図の身姿の牛あらわれ出
たり面は人に似たり
件と言獣なり
むかし宝永二年酉
の十二月にも此件出たり
翌年より豊作打
続しも古き書に見へ
たり尤件と言
字も人べんに
牛と書てよむ也
至て正直成る獣なり故物証文
と終りにも如件と書も此縁
也此絵図を張置ば家
繁昌して諸病をうけ
ず一切のわざわひをまぬかれ大豊作を守る
誠に目出度獣なり

[現代語訳]
大豊作をもたらす件(くだん)という獣である。
天保7(1836)年12月に丹波の国の倉橋山の
中に図のような姿の牛があらわれた。
面は人に似ている件という獣である。
むかし宝永2(1705)年12月にも、この件が出て
翌年から豊作が続くことが古い書物に書かれている。
もっとも、件という字も人偏に牛と書いて読んでいる。
正直である獣であるので、故物証文の末尾にも
如件(くだんのごとし)と書いているのもこれが由来である。
この絵図を貼っておけば、家内繁盛、諸病を受けず、
一切の災いを免れ、大豊作となる
誠にめでたい獣である。

うしさんのえ
写真4 参考資料ファンタジー事典「天保7年丹波国与謝郡瓦版の件(くだん)」

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電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
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