第11回 渋沢栄一をして『第二の心のふるさと』と語らせた佐久とは
更新日:2021年5月25日
渋沢栄一をして「私の第二の心のふるさと」 と語らせた佐久とは
渋沢栄一にとっての佐久
『朝陽』撮影花岡直樹 信州佐久市観光フォトコンテスト2015佐久市観光協会長賞(最優秀賞) ◎中山道は写真の浅間山の麓、渋沢栄一たちは旭日の辺り、香坂峠、志賀峠、内山峠、砥沢峠を主に利用。
昭和4年(1929)といいますから、渋沢栄一89歳のときです。彼は地元新聞紙記者の問いかけに『私の第二の心のふるさとは、信州佐久、上田だよ』と答えています。
それを裏付けるかのように、佐久の古老たちは昔話の中で、幼い渋沢とチャンバラごっこ(佐久の方言で子供たちの刀の斬り合い遊び)をした。という口碑を伝え残しています。
まさかあの大渋沢と斬り合い、と思いますが、後年渋沢栄一の佐久、そして岩村田藩領であった上田市丸子依田地域の若者たちにかけてくれた暖かい眼差しは、やはり地元の古老の昔話は本当で、ひい爺さんたちは渋沢の竹馬の友であったようです。
渋沢家発展の陰に上田市丸子依田地域
それは渋沢市郎衛門家の藍玉営業に元があります。この企画第5回の中で、渋沢研究第一人者の小林慎一氏の研究成果から、渋沢家の営業実態は年商一万両、現代でいえば10億円としました。
この巨大な事業の始まりは、ドラマ『青天を衝け』の中で、平泉成が演じる栄一の叔父三代目宗助、そして栄一の父渋沢市郎衛門、この二人の父親二代目宗助が、上田市丸子依田地域を営業で訪れた際学んだ優れた養蚕技術、それは三代目宗助により『養蚕手引抄』として自費出版がされていますが、渋沢家の事業発展の端緒でした。
佐久市下県区 集落の中央を清冽な農業用水が流れ、落ち着いた佇まいの家並みが続きます。撮影五郎兵衛記念館(S.N)
事業家は精神も大切
そして当時営業するうえで、何より大切とされていたのは、満足な広報媒体のない時代ですから、商品の信頼性を明らかにする証の一つとしては、販売者の教養でした。
この企画第7回で、杉仁氏の吉川弘文館出版『近世の在村文化と書物出版』から、『各地の豪農商文人が文化の担い手であった』のとおり、渋沢家の教養のひとつは、信州佐久郡下県村の木内芳軒家にあり、栄一も幼いころから、祖父宗助と信州佐久、上田をよく訪問していた記録から大切な土地だったのでしょう。
口絵写真『朝陽』は、渋沢栄一が、大切な商談で東信濃を訪れるとわざわざ回り道をし、漢学を語るのを何よりの喜びとしていた木内芳軒宅からほど近い五郎兵衛記念館から見た早暁の佐久平です。
渋沢栄一と尾高惇忠と木内芳軒との心からの交友の記憶
昔の旅は夜明けとともに出発でした。木内芳軒の絶筆『芳軒居士遺稿集』の中に『上玄夜藍香尾高君過宿分得東韵』と題した漢詩があります。
「上元」というから1月15日の夜、藍香尾高惇忠が年始のお得意さん周りで信州佐久を訪れていたのでしょうか?「過宿」ですから芳軒宅へ立ち寄り、「分得」は「得」を芳軒先生たちは「気が合う、親しさ」という意味でも使われるので、楽しい時を過ごしたのでしょう。
確かに後に続くこの詩の内容から、木内芳軒と夜の更けるを忘れて語り合っていた尾高惇忠が、休むこともなく夜明けの到来とともに、故郷深谷への旅立つ。それを見送る惜別の詩です。
詩の冒頭には、旅立ちの慌ただしさを感じさせる馬のいななき、蹄の喧騒、一転して夜明け前の静寂さを詠いつつ、詩の最終行では『君帰るとも忘れる莫れ』と結ばれている。まさに芳軒の漢詩を神清韻秀と、渋沢栄一が漢詩の師と仰いだ大沼枕山も評しているように、素晴らしい作です。
私たちは古文書を地元で守り、活用しようと努力しています。それは今回お示ししたように、例えば地元を詠った漢詩を実際の風景と重ねられることによっても、現地保存の大切さ、更に渋沢が愛した佐久の良さが実に良く分かって頂けるはずです。 佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂(ねざわしげる)
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