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第18回 用水開発は地域づくり、平和で豊かな社会を願って

更新日:2021年8月31日

生活を愛し、人を愛し、国土を愛して

広く社会へ用水開発の素晴らしさを知らせた人
 農村を舞台に数々の名作を遺す日本農民文学界を代表する偉大な作家和田傳は、児童・生徒の文学的資質の高揚を図る『厚木市和田傳文学賞』の創設でも知られていますが、昭和30年(1955)1月に出版された『日本農人伝』社団法人家の光協会で、広く社会に市川五郎兵衛が行った用水開発の苦心譚を紹介してくれています。
 作品の中で和田傳は、緻密な現地取材ノートをもとに、本州中央部太平洋と日本海との分水嶺に位置する蓼科山、その北側山腹1,900m地点で大量湧水を五郎兵衛が3年半もかかり漸く発見したことから書き起こし、この水源から標高差が1,300mもある五郎兵衛新田まで、五郎兵衛たちの用水開発工事の途轍もない苦心の連続と、用水で開かれた村の経営が名主栁沢家の経営により安定するまで、その15年間の歳月について、格調高い文章で書き綴ってくれています。


用水の歴史は自然災害から復旧の歴史
 寛永7年(1630)の五郎兵衛用水完成から現代に至るまで、用水の歴史は八ヶ岳からの派生尾根をいくつもの隧道、懸崖水路等で乗り越えてくるため、常に自然災害による用水施設の破壊とその復旧の歴史でした。
 記録によれば寛永7年の通水から間もなく、矢嶋原の山沿いに施工された用水路は火山灰と角礫層のため大変脆く、また漏水が甚だしいためその対策として、新たに矢嶋山に長大な隧道を掘り抜く改良工事を施工せざるを得ませんでした。
 このような工事が度重なるため、先人たちは後世の人たちが、災害復旧や日々の用水管理の対応に誤らないよう用水施設の自然災害による損壊と、その復旧のことなど細やかな記録を残してくれています。

用水開発者市川五郎兵衛のこころ
 市川五郎兵衛は、佐久平で常木用水、三河田用水、五郎兵衛用水の開発を成功させました。
 地侍である彼が何故用水開発を志したか、について口絵写真の彼が世を去る時に残した辞世のほかは何も残してはいません。
 ただこの辞世の中で五郎兵衛は、生涯彼の心を用水開発による地域再生へと、その心を突き動かして来たのは、市川家の家風がいう「寂」という心からであったと漢詩に詠んでいます。
 ところでこの「寂」という言葉ですが、茶道裏千家千玄室大宗匠は産経新聞連載の中で、絶対の覚悟を言い表した言葉と教え説いてくださっています。

今も昔も平和で豊かな暮らしを願って


蓼科山からの貴重な水の最後の行き先は?
 五郎兵衛用水の最も遠い行き先です。九つの隧道や、現在の一級河川布施川を渡る巨大な水道橋を経て、上原の大盤台という合理的な用水の分配施設に導かれた用水の行き先の一つは、そこから相浜用水と名を変え4.7キロ、一級河川石附川を巨木を加工して作られた水道橋により千曲川の断崖絶壁の上に開かれた相浜集落まで導かれます。
 その場所は戦国時代末、佐久平の若者たちがお互いの信じる国づくりの理念に命を懸けて戦い、その悲惨な戦闘で流された血により、清流千曲川が三日三晩紅に染まったという悲話の地でもあります。
 江戸時代の初め佐久平が平和を取り戻した時、小諸藩主は理想実現のため尊い命を落とした敵味方の御霊の安かれを祈り、今に続く金龍寺を開基します。その時、五郎兵衛と相浜の人々は建立された御寺の本堂の前に用水の水を導き、手向けの水としました。
 時代は移り江戸時代の末のことです。金龍寺は渋沢栄一の恩師木内芳軒はじめ、当時佐久で盛んに学ばれた漢学の指導者たちが集うサロンとなります。今に残る漢詩や華道の貴重な記録のほか、当時の金龍寺住職は宗門宗派を超え、大勢の助力を得て境内の千曲川添いの参道に安置された貴重な石仏群が千曲川の浸食により崩落の瀬戸際であったので補修と新たな勧進をしています。その賛同者の中には竹井澹如の父五代目市川五郎兵衛真純の名も見られます。

寂の心から渋沢栄一と五郎兵衛の子孫が行ったこと

若者たちの可能性を信じ
 ところで、苦学生への奨学制度でよく知られた日本育英会が設立されたのは昭和18年(1943)のことでした。
 民間はそれより随分と歴史が古く、日本最古の民間育英事業団体ができたのは明治12年(1879)に旧加賀藩士の出資により設立された公益財団法人加越能育英社がその始まりとされています。 
 それというのも明治維新がなり身分制の世から、誰でも一定の学問を積めば立身出世の道が開けたことにより、若者たちは競うように新たに設立された大学で学ぼうと上京を図りました。
 しかしながら、大志を抱いた地方出身の若者たちの東京での学生生活、取り分けその衣食住には厳しいものがありました。
 学業を全うするため生活困窮に苦しむ学生が増えるを見て、旧加賀藩前田氏をその初めに、熊本藩細川氏、山形庄内藩酒井氏と、旧藩主と藩士が力を合わせ、東京へ進学した地元出身苦学生たちを援助する体制が進みます。

 

 

 地域を挙げて人材育成を
 明治12年(1879)から地方上京学生の奨学制度が整いながら、万平が栄一とともに活躍した埼玉県は、出身学生を援護するような旧藩関係者などなく、現代と違い交通機関が未発達でしたから、学生たちは苦学生のそのものでした。
 その改善のため、経済界での大成者渋沢栄一のもとに奨学制度への出資と、施設整備への要援助の要望が出されていました。しかし栄一は個人の力で発足した制度では長い活動は無理であり、埼玉県民すべての願いにより発足してこそ組織も制度も充実するが持論であり、埼玉県独自の奨学制度は長いこと頓挫してきていました。
 明治34年(1901)3月7日のことです。資料写真の幼いころから生涯を通じて渋沢栄一と行動を共にしてきた竹井澹如(五代市川五郎兵衛の五男)は、埼玉県民挙げての奨学制度の創設を提言し、それは県民総意の賛同を得て、苦学生のための優良な宿舎の建設と奨学金発足へなりました。

 学ぶことの大切さ、共に生きることへの努力を生涯忘れなかった栄一と竹井澹如(市川万平・五代市川五郎兵衛五男)、彼らは画期的な奨学制度を明治末年に発足させました。
幸いなことに五郎兵衛記念館にその記録がありましたのでその足跡を掲載しました。  佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂
 

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