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第7回 渋沢栄一と旧幕時代岩村田藩領の人々

更新日:2021年3月7日

館長の豆知識(7) 渋沢栄一と旧幕時代岩村田藩領の人々

逆境の村から渋沢栄一の片腕に

 佐久平では未だ台風被害復興の途中、それに加えコロナウィルス災禍の真っただ中です。古文書というと過去の話と捉えがち、でも「歴史は繰り返す」の格言のとおり、災害と不況に負けない雄々しい祖先たちの姿が古文書の行間に残されています。
 今回は江戸時代岩村田藩内藤家の治世と渋沢栄一についてです。子供の手まり歌にまで「かねがないとう・・・・・」とうたわれた岩村田藩財政の逼迫ぶりは広く世に知られているところです。でも古文書を一枚一枚辿っていくとお米中心の経済とは全く別のお金の世界が見えてきます。

 昭和15年(1940)11月24日に内山疣水で開催された『内山峡詩之碑』除幕式来賓に、渋沢栄一の孫渋沢敬三子爵と共に、栄一が抜擢し経済界で大活躍した伊藤松宇の名があります。
 彼は超一流の経済人でありながら俳人、また俳諧の優れた研究者でもありました。彼こそ岩村田藩の幕末で果たしてきた役割の生き証人です。
 岩村田藩領というと、現在の佐久市域が思い浮かびます。実は上田市丸子の依田地域にあった上丸子村、中丸子村、御岳堂村、飯沼村もその領域でした。
 この依田地域は千曲川支流の中では流量が最も多い依田川、内村川の合流点に立地するため洪水被害の常襲地域でした。上丸子村もそのため集落移転の歴史があります。

 伊藤松宇はこの上丸子村の紺屋に生まれました。『丸子町誌』によれば、自然災害の逆境に打ち勝つ殖産興業の先進地のような岩村田藩領丸子依田地域には、紺屋が13軒、栗岩英治氏の『長野県町村誌』には、飯沼村だけでも木綿縞の年間生産が2,800反とあり、そのため染色藍の需要が大きく、伊藤松宇の生家も渋沢家の上得意客でした。
 渋沢栄一の信州の旅は、交通難所の上信国境越え、風光明媚な内山峡、そして木内芳軒宅、五郎兵衛新田を経て、上丸子村の伊藤邸での楽しみでした。
 それは杉仁さんの『近世の在村文化と書物出版』によれば、近世の村は、文化の宝庫であり、豪農商が生産活動と俳諧・生花・書画・武術・儒学などの両立させてきたとあるとおり、若き日の栄一にとって、伊藤家では藍の商談とともに俳諧を語ることも楽しみの一つでした。

困難に立ち向かってきた村の人々の残したもの

 岩村田藩領丸子依田地域は依田川、内村川による天災の常襲地帯、そのうえ人々に困難を与えたものに地域の分断統治があります。
 本来一つであった丸子依田地域が幕府領、岩村田藩領、小諸藩領、上田藩領と分割されたため、村々は水利権、山林の入会権の確定に、また治山、治水の費用分担に対する紛争処理には、その紛争調停機関が江戸幕府の評定所であったため、訴訟のための往復の費用そして滞在費と、膨大な訴訟費用に苦しまなければなりませんでした。
 岩村田藩領の村々を本来助成すべき藩財政は、小林基芳氏の『佐久市誌』記述から見ると、例えば文政8年度(1825)の現金収入は4,137両、支出は江戸での諸費用が2,561両、地元での諸費用たったの524両、そのため依田地域の岩村田藩領の村々は自力調達で解決していくほかありませんでした。
 

 現在行政区域を異にするため殆ど知ることが少ない岩村田藩領丸子依田地域の歴史、この幕末から明治初期にかけての貴重な古文書からの歴史研究と報告に、上田市中丸子在住の元県立歴史館課長の阿部勇氏による『岩村田藩飯沼村古文書調査報告』があります。
 阿部勇さんの克明な調査結果によると、日本で初めての本格的外国人向けホテル通称『築地ホテル館』を建設したのはゼネコン「清水建設」の前身の「清水組」でしたが、その多額な建設資金の最大提供者は飯沼村の繊維商の吉池泰助(1824~1877)ということです。
 また清水建設社史によれば渋沢栄一は「築地ホテル館」建設の優れた建設手腕が気に入り、当時の清水組に自身の邸宅の建設を請け負わせ、その後生涯清水組の相談役として事業発展に貢献しております。

幕末から明治へ 生糸貿易の窓を開いた村

 洪水常襲地帯での稲作栽培は、冠水被害と病害による大幅な減収益で普通なら村の維持は到底無理なことでした。
 しかし依田地域の人々は逆境の中から工夫し、水田を水害に強い桑園にすることにより、養蚕の重大な障害であった土壌を中間住みかとする繭への寄生虫が根絶できるという逆境の中から好条件を見出し生業に結び付けました。
 やがて、国内有数の蚕種の供給地、そして飯沼村の吉池家では蚕種の生産、販売から生糸の集荷にかけては、関八州から広く奥州まで手広く扱う国内有数の豪商となっています。
 岩村田藩丸子地域の繊維商人たちはこのように、横浜開港前に大規模な生糸集荷体制を構築しておりました。
 ペリが来航して6年後の安政6年(1859)6月、横浜が開港され最初に英国人との生糸取引の先駆けとなっています。
 ちなみに、その時の商いは馬10駄(馬10頭)で、1駄には生糸4梱包が荷負わされており値は1駄100両、10駄で1000両ですから1両10万円と単純計算した場合、1億円の日商いとなったと、上田「原町問屋日記」に記録されています。(佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂(ねざわしげる))

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