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第21回佐久の若武者と源義経の知られざる悲話

更新日:2022年3月3日

源義経を守り命を落とした若武者の故郷佐久

戦乱が絶えなかった上信国境
 平賀氏所領だった平賀郷に接し、用水開発者市川五郎兵衛たちが活躍した群馬県甘楽郡南牧村があります。
建久6年(1195)8月、曽我兄弟の仇討ちで知られる工藤祐経の母親はな(法名慈眼尼)は、孫の犬房丸祐時を伴って甘楽郡南牧に移り住み、慈眼尼は一寺を開基し、慈眼寺と名付けたとされています。 (『南牧村誌』)
 このほかにも村の古い歴史を語るものに、平澤加代子さんが『東京大学史料編纂所研究紀要第24号』2014年3月に発表した論文「いわゆる〈円仁の系図〉についてー〈熊倉系図〉の基礎的考察―」があります。
 そもそも系図は作成時から先祖を誇示するための作為や、子孫により様々な加筆と修正があり、信頼に欠ける二次資料に過ぎないとされています。
 しかし平澤さんは、南牧村を舞台に『熊倉系図』と呼ばれる平安時代初期に第三代天台座として、天台宗発展に尽くした天台僧円仁(延暦13〈794〉-貞観6〈864〉)に関係する系図の歴史研究で、平安時代平忠常の乱鎮圧の勲功により既に大勢の武士団が南牧へ移住していたと、読み解いていることから、この地域では平安時代から江戸時代まで、数限りない戦と平和の間に人々は身を置かなければならなかったようです。
 その様なことから、戦国の世が終わったとき、平和で豊かな社会を目指して市川五郎兵衛の新田開発の願いが始まったのでしょう。

源義経を命を懸けて守った佐久の若武者
 この鎌倉時代に活躍した武将に源義経がおり、彼の一代記に『義経記』があり、研究者の藪本勝治さんが『国文学ノート』(神戸大学「研究ノートの会」)に、佐久市と源義経との興味深い歴史を紹介しています。
 それは文治元年(1185)冬、平家を滅ぼし京都堀川の屋敷にいた源義経は、兄頼朝が差し向けた刺客の土佐之坊正尊から襲撃されます。
 この事件は堀川夜討ち事件として世に知られ、義経の悲劇的境遇を象徴するものだとして『平家物語』や謡曲、幸若舞でも大きく取り上げられています。
 『義経記』で首に矢を射られ、義経の膝のうえで息絶える武士に「信濃の住人に、江田三郎といふものあり」と名を残す若武者がいます。
 江田三郎は「エタ(エダ)」の名を持つ土地を名字の土地しています。薮本さんは論文の中で、信州で「英多」と書いて「エタ(エダ)」と読む場所は2か所だけ、一か所は長野市松代にかってあった植科郡英多庄と、もう一か所は佐久市内安原に鎮座している佐久郡英多沢の英多神社だけだとしています。
 薮本さんはどちらの土地も、直接に義経にまつわる伝説が残っていないため伝承による江田三郎の出身地として確かな結論付けは無理なことだが、こと佐久安原の地は、英多神社という信仰の場であり、また佐久は当時盛んだった鎌倉から善光寺への参詣ルート上に位置し、そのうえ安原から県境の山向こう、群馬県松井田には『平家物語』で源義経の近臣伊勢三郎が居住していたとされていることから、佐久安原は注目すべきとの研究報告をしています。                               (根澤茂)

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佐久市内安原と群馬県安中市松井田町は地図で見る通り大変近い場所です。資料出典:国土地理院ウェブサイト(htts:www.gsi.go.jp/tiz-kutyu.htm)

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