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第25回佐久の人々の助け合いの輪

更新日:2022年7月17日

水の恵みを分かちあってきた佐久

 五郎兵衛の家と佐久
 五郎兵衛用水を開発した市川家は永禄3年(1560)、武田信玄から佐久市内の百沢区と八幡区に近く、現在も「殿屋敷」と呼ばれる望月氏居館跡に隣接した領地を得ます。元亀2年(1571)生まれの五郎兵衛は天正10年(1582)、武田氏が滅び所領が没収されるまで佐久が第二の故郷でした。
 ところで幕末に活躍した勝海舟は晩年、回想録『氷川清話』の中で、戦国武将の中で領民の幸せな暮らし「民生」に秀でていたのは、織田、武田、北条の三氏であった。低い租税体系と領民の生活向上のため、織田信長の楽市・楽座にはじまり、北条、武田氏が行った様々な諸施策は他の追随を許さない優秀なものであったと語っています。
  

 戦国の世が終わったとき
 勝海舟の言葉とおり、佐久平で武田の遺臣達は人々が幸せに生きるため、五郎兵衛の常木用水・四ヶ用水・五郎兵衛用水、黒澤嘉兵衛は八重原用水、六川長三郎は塩沢用水、柏木小右衛門が御影用水を開発しています。
 この武田氏の土木技術について、農業水利の権威者で文化勲章受賞者の沢田敏男元京都大学総長が設立に深く関わった「風土工学デザイン研究所」の紀要『風土工学だより』第60号・平成29年11月で、竹林征三富士常葉大学名誉教授は様々な事実資料を基に、武田信玄の治水技術は中国からの技術移入であったと論文を発表されています。
 

助け合いの精神は江戸の昔から
 丘の上にある五郎兵衛記念館の麓に大池があります。岩村田が生んだ郷土史家吉沢鶏山はその著書『四隣譚數』元文元年(1736年)で大井郷を例に、大とは大きなことではなく大切な施設、井は用水路と読み解き、佐久の人々は古代からいくつもの用水施設を開発し、そして大切に管理し、地域の繁栄を図ってきたと記し残しています。
 鶏山の地道な調べを証明するかのように、中世以前から原大池と呼びならしてきたこの貯水池は、勅使牧望月の牧関係者が高台にあるため、水田耕作に河川から水が得られず、通常なら水稲栽培が望めない矢嶋原で、人々が力を合わせ天水を貯めて東京ドーム約2倍の面積10ヘクタールの水田に灌漑していた佐久市内最大規模の溜め池です。

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丘の上に五郎兵衛記念館(画面中央)と、佐久の人々が力を合わせて守ってきた大池

力を合わせ原大池を守ってきた記録
 五郎兵衛記念館というと、用水開発者市川五郎兵衛個人の顕彰施設というイメージがあります。でも当館には江戸時代にあった周辺8か村から貴重な古文書が10万点を越して託されており、そしてこの大池を江戸時代佐久の人々が支配の領域を越え、土砂で埋まらないように力を合わせ守ってきた尊い歴史が残されています。 

 見慣れない上に掲げた古文書は、文中に岩村田・小田井・長土呂等々の地名が記されていますが佐久の祖先たちの協働の貴重な記録です。というのも佐久市内に数あるため池の中で最も大きな溜め池「大池」は、長年使っているうちに土砂で水深が浅くなり貯水機能が失われてしまいます。この文書は明和7年(1771年)に岩村田藩が領内村々へ、くまなく大池普請に出役を通達した廻状です。
 このように記録が残っているだけでも江戸時代、岩村田藩・小諸藩は30年に一度は領内村々へ支援を呼びかけ、その都度1万人から1万2千人という大勢の人々が、真夏の炎天下の下、困難が伴う堆積土砂の浚渫作業を実施してくれていました。 
 この「大池お浚い普請」という当時の全佐久地域をあげた一大事業の詳細な研究レポートは、元五郎兵衛記念館古文書調査員の佐藤敬子さんが『大池の浚い御普請』平成12年3月30日浅科村教育委員会で詳しく報告されています。

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