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第28回渋沢栄一と比田井天来と佐久の漢学塾

更新日:2022年10月19日

漢学の私塾が最後まで輝きを放っていた佐久

古文書が教えてくれること 
 古文書は実に様々なことを語ってくれます。当館に現代書道の父と呼ばれる、比田井天来の恩師、漢学者依田稼堂の遺族から託された古文書2,531件があります。
 『北佐久郡誌』に、依田稼堂はその生涯で漢詩を2万余首も詠んだ。とあるとおり、当館稼堂文書には夥しい漢詩作品が残されています。
 ところで明治時代になると、日本でも結婚記念日を祝うという、西洋の習慣が人々の間に広まります。稼堂の残された漢詩ですが、奇妙なのは漢学者でありながら、西洋の金婚式を祝う漢詩がいくつも残され、金婚式記念詩歌集としては国内で先駆けもあります。
 それは明治42年(1909年)、渋沢栄一が慕った木内芳軒の漢学塾「静古軒」で、稼堂の兄弟子だった並木梅源の結婚50周年、金婚式を祝った記念詩歌集です。
 巻頭の扉書きに並木梅源の金婚を祝い、渋沢栄一や、佐久の漢学指導者たちが漢詩の師と仰いだ小野湖山が、「双鶴共栖千裁松」と揮毫しています。
 ページを追うと、この詩歌集は漢詩が殆どで、あとは和歌がわずかであり、また作者を見れば、漢詩では明治三大詩人と言われる、鱸松塘、小野湖山、大沼枕山が、和歌でもやはり明治を代表する歌人、海上胤平や、坂正臣に並び、川上村の生んだ文人上田龍雄など、数えれば県内外から101人の方々が詩歌を寄せています。
 

漢学私塾しか学ぶ場所がなかった佐久
 この詩歌集の漢詩の多さですが、佐久地方は日本社会で最後まで、民間の漢学塾が盛んだったことにもよります。
 それというのも、当時の教育政策により、佐久地域では旧制中学校(現在の新制高等学校)の新規開校が、明治37年(1904年)まで叶わなかったからです。
 そのためこの地域の子弟は、尋常小学校を卒業すると、進学しようにも地域に旧制中学がなく、従って依田稼堂の「有隣塾」や、木村熊二の英語塾に合わせた漢学塾等によって、向学心を満足させるほかありませんでした。
 口絵写真は明治35年(1902年)当時の桜井村有志による、依田稼堂の漢学塾「有隣塾」塾生募集広告です。このように地域で、学びたい若者を後押しするしかありませんでした。
 参考までに下段に、明治時代の長野県教育制度と、依田稼堂の有隣塾について、図解化しました。

 

明治時代佐久の教育制度と依田稼堂の漢学塾の歩み

KKKK
明治5年(1872)に「学制」により小学校制度が制定され、明治10年(1877)には官立東京大学が創設されました。しかし佐久平には明治37年(1904)までその進学のための旧制中学がありませんでした。

 進学が大変だった当時の佐久地方
 日本国内では、明治10年(1877年)の官立東京大学創設に間もなく、明治12年(1849年)には、いち早く旧加賀藩士の呼びかけで、石川・富山両県民子弟の進学のため、現在に続く公益社団法人「加越能育英社」の奨学制度が発足しています。
 しかし、同じころの佐久の青少年には奨学制度も、地域に中等教育施設もないため、大学進学は大変遠い存在でした。
 そのため、後に貴族院議員となる並木梅源の子、和一は旧制中学への進学のため、同じ県内でも峠を幾つも越えた、松本深志中学に進まずを得ませんでした。
 今は佐久平と松本平は簡単に往復できますが、明治35年(1902年)に鉄道の篠ノ井線の開通までは、古代東山道からの保福寺峠越えしかなく、奈良時代の万葉人同様命懸けの旅路でした。
 この保福寺峠の有名なエピソードとして、明治24年(1891年)上田から松本へ、鉄道が開通していないため、徒歩で旅していたウォルターウェストンは、保福寺峠から山塊の絶景を目にします。彼はのちに「日本アルプス」と命名して世界に紹介していることです。
 とにもかくにも佐久平は経済的負担に加え、天嶮を越えなければ進学ができない地域でした。

佐久の漢学私塾が結ぶ人の絆

金婚式記念詩歌集に名を残した人
 古文書が地域に残されることの大切さに、先人たちの貴重な足跡が辿れることです。
 その例に、この金婚式記念詩歌集に一人で漢詩と、和歌も長歌から短歌まで一番残している人に、南佐久郡川上村の上田龍雄がいます。
 口絵写真は、上田龍雄と木内芳軒「静古軒」塾の関係が知れる、当館寄託『依田昴家古文書』です。当時野沢を拠点に活動していた上田千風の孫龍雄ですが、彼は和歌を当時の最高指導者海上胤平に学び、『万葉集』の神髄に迫るには、代表的歌人柿本人麻呂の像をいつも身近に置けという教えを受けます。
 そのため龍雄は、胤平の言葉を実現するため、佐久の代表的画人の柳沢文真画伯に、上田龍雄が柿本人麻呂銅像の鋳造を依頼し、その肖像の完成記念の栞の前書きは依田稼堂が用意した原稿が使われました。
 

 上田龍雄の活躍  
 上田龍雄ですが、祖父は国学者で歌人の上田千風でした。千風は若くして川上村から修学のため京都に出て、漢学を佐藤一斎、和歌を公家の千種有功、橘守部から直接学びます。この当時の塾仲間、佐久間象山とは生涯大変親しく交際していました。『川上村誌』などに採録の残された文書から、上田千風の人脈が木内惺堂・芳軒の漢学塾「静古軒」に継承されていたことが知れます。『川上村誌資料編(上田家文書・歌文集)』 
 この「静古軒」での上田千風、龍雄と梅源の深い関係から、右写真『梅源吟閣双壽集』に漢詩と和歌を寄せている人々は、佐久地域に限らず、遠く山形県から四国愛媛県まで広がっています。
 また、あまり知られていないことですが、上田龍雄は、島崎藤村で有名な小諸義塾の塾頭となる、木村熊二を最初に佐久に招いたり、東京での家族生活では、島崎藤村とも大変親しい交際もしています。
 その島崎藤村と、小諸義塾塾頭木村熊二、そして上田龍雄との研究は、清泉女学院短大教授だった北原明文氏が、『清泉女子大学短期大学紀要(第18号)』に、「明治期地方名望家の教養と西洋思潮」として、『木村熊二日記』(刊本)と『上田龍雄出京日記』から、佐久平の忘れられている貴重な歴史を教えてくれています。
 

依田稼堂を囲む佐久の人の輪

本文の参考資料

 クリックすると画面最上部に『明治期地方名望家の教養と西洋思潮』とあります。その44ページからの「(五)佐久の自由民権運動と同時期の伊那谷の動向として」としてに、当時佐久の情勢が、また50ページからの「(七)近代西欧的感性の『桜の実の熟する時』と『上田龍雄日記』」からには、明治21年(1888年)当時の島崎藤村と、上田龍雄、木村熊二の動静について、当時清泉女学院短大教授だった北原明文氏の論文が掲載されています。

 クリックすると慶應義塾大学学術情報リポジトリの画面になります。画面中ほどの本文欄、Downloadをクリックすると、長野県立千曲歴史館課長の村石正行さんが以前発表された論文『地方福沢門下の社会教育実践:神津国助の模索と実践』に、明治10年代の佐久地域における福沢門下の社会教育活動の克明な実践が報告がされています。

佐久市文化施設では協働互助に努めています。佐久市中央図書館では「佐久の先人」を語るを月例講座としています。今回依田稼堂を取り上げましたので、ご参考までにその講座資料を添付しました。 (根澤 茂)

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