このページの先頭です
このページの本文へ移動

第35回 巨大噴火、大飢饉と佐久の先人

更新日:2023年9月11日

古文書の中の災害と向き合ってきた記録

もうこりたの人々
 今年も9月1日は、市川五郎兵衛を祀る眞親神社の秋季例大祭が、また9月9日の命日には358回目の忌日法要が、関係者多数参列し、厳かに挙行されました。
 法要で、菩提寺妙香院原康穣ご住職(国宝長野善光寺宿坊薬王院住職兼帯)から、五郎兵衛の生涯は「もうこりた」そのものという有り難いお話がありました。
 「もうこりた」を漢字で書けば「忘己利他」、その意味は「己を忘れ、他を利する」のこと、中世末の天災と戦乱で荒廃した佐久平を復興するため、私財を投じ常木・四ヶ(三河田)・五郎兵衛の三用水開発した五郎兵衛の行いは、「もうこりた(忘己利他)」そのものとのお話しでした。
 ところで当館古文書を紐解くと、この自己献身の精神は五郎兵衛に限らず、今まで災害になると先人たちはいつも遺憾なく発揮してきていました。

 巨大災害とかかわった記録を後世へ
 旧制松本高等学校(現信州大学)の長野県誘致など、信州教育に偉大な足跡を残す佐久の先人佐藤寅太郎は、郷土の自然を愛し明治43年(1910)9月のことです。
 浅間山研究の事始めともいえる名著『浅間山』を、43歳にして当時校長を務めていた、小諸尋常高等小学校の教職員と協力して世に出しています。佐久の先人依田稼堂の子息依田源七はこの時、自然編を担当しています。
 この『浅間山』の中で寅太郎は、歴史に残る浅間山噴火の記録を『日本書紀』の天武天皇14年(685)3月から近世まで克明に記録しています。
 佐久市関連では、宝暦4年(1754)7月2日浅間山の巨大噴火があり、佐久・小県地方に大量の火山灰が降り、農作物に甚大な被害が生じたと記しています。
 しかし一部の火山研究者から、宝暦4年の浅間山噴火の引用先が『信濃国浅間嶽之記』だけなので事実かどうか疑わしい。というご意見があります。

『信濃国浅間嶽之記』とは
 佐藤寅太郎は『浅間山』を編纂するにあたり、当時佐久地方に残されていた浅間山噴火の古記録から、18件の史資料を採用しています。
 宝暦4年浅間山大噴火による五郎兵衛田んぼが火山灰の下の引用もとは『信濃国浅間嶽之記』でした。
 著者の丸山柯則は、中山道塩名田宿本陣・問屋当主、中山道千曲川往還橋元締め、という多忙な公職を務めながら、『千曲の真砂』を著した瀬下玉芝や『信濃地名考』を残した吉澤鶏山と深い親交があり、俳人としても大変評価が高い方で、『信濃国浅間嶽之記』に歴史に残る浅間山噴火の記録と、天明3年浅間山大噴火の様子、被害の聞き書きなどを克明にまとめています。
 その中には「大戸村の田村権八という百姓は、自身も浅間山土石流の被害にあいながら、より甚大な被害の近隣村々の村人の暮らしの再建、生活困難を救うため、自身が融通できる米3000俵を難民に提供、そのうえ当座の生活資金として、50両、30両と高額なお見舞金を53の村々へ出している」という「もうこりた(忘己利他)」を書き残しています。 

 幻の激甚災害
 幸なことに、五郎兵衛記念館古文書の中に丸山柯則の伝えてくれた、宝暦年間の浅間山大噴火による五郎兵衛田んぼの火山灰被害を記録している古文書がありました。
 この当時年貢は定免法という、毎年定額のもと年貢を納付していました。しかし天災により農作物の減収が見込まれると、役人の現地確認を受けて大幅な減額されるのが通例でした。 
 この古文書によれば、五郎兵衛新田村では、7月2日の大噴火により火山灰と軽石が農作物に厚く積り、秋の収穫が到底望めないと、5日には代官所にご注進しています。
 それを聞いた代官所から急遽7月15日に、現地確認に到着したところ、火山灰で真っ白のはずの水田が青々としています。
 「どうしたことか?」と、代官所から噴火を幸いに年貢を値引きかのご意見に対し、村役人より12日から雨が降り出し、15日夜には大雨となり、火山灰も軽石も洗い流されてしまったという1件を書き留めたものです。『五郎兵衛新田古文書目録第3集(二)』J19
 ちなみに、この後の天保飢饉では役人の現地確認により、年貢が極端に軽減され、岩村田藩では1/3、五郎兵衛新田村では1/5という、の大幅な見直しがされています。(この項続く) 根澤茂
 
 
 
 

お問い合わせ

社会教育部 文化振興課
電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
ファックス:文化振興・文化施設係:0267-64-6132  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5322

お問い合わせはこちらから

本文ここまで

サブナビゲーションここから
ページの先頭へ