タイムマシン!むかしのさく市をみてみよう
更新日:2015年2月2日
むかしのさく市をしょうかいします。
縄文(じょうもん)時代のさく市
「下吹上遺跡(しもふきあげいせき)」は、昭和51年に発掘調査(はっくつちょうさ)された縄文時代の遺跡で、ゆかに鉄平石(てっぺいせき)がしかれた住居跡(じゅうきょあと)もあり、縄文時代の人々のくらしをしる貴重(きちょう)な遺跡です。
のどかな田園風景(でんえんふうけい)にとけこんだ2けんの住居跡に、縄文人のくらしぶりが想像(そうぞう)されます。
江戸(えど)時代のさく市
江戸日本橋(にほんばし)から信濃(しなの)・美濃(みの)をへて近江(おうみ)の草津(くさつ)で東海道(とうかいどう)にごうりゅうする「中山道(なかせんどう)」69宿(しゅく)の中で、さくには軽井沢(かるいざわ)・沓掛(くつかけ)・追分(おいわけ)・小田井(おたい)・岩村田(いわむらだ)・塩名田(しおなだ)・八幡(やわた)・望月(もちづき)・芦田(あしだ)の9宿がありました。どの宿場(しゅくば)からも、噴煙(ふんえん)たなびく浅間山(あさまやま)がみえ、わらじばきの旅人(たびびと)にやすらぎをあたえる羅針盤(らしんばん)でした。
中でも、岩村田宿(いわむらだじゅく)は、長野の善光寺(ぜんこうじ)への「善光寺道(ぜんこうじどう)」、甲府(こうふ)への「佐久甲州街道(さくこうしゅうかいどう)」の起点(きてん)として交通(こうつう)の要衝(ようしょう)でした。
「岩村田宿(いわむらだじゅく)」
内藤氏(ないとうし)1万5千石(こく)の宿場町(しゅくばまち)。本陣(ほんじん)、脇本陣(わきほんじん)はなく、大名家(だいみょうけ)は寺院(じいん)で休泊(きゅうはく)しました。佐久甲州街道、善光寺道、上州(じょうしゅう)下仁田道(しもにたどう)の分去れ(わかされ:ぶんき点)があります。
当時(とうじ)をしのぶたてものとして、龍雲寺(りゅううんじ)・西念寺(さいねんじ)・円満寺(えんまんじ)・若宮神社(わかみやじんじゃ)などがあります。
「塩名田宿(しおなだじゅく)」
街道(かいどう)と千曲川(ちくまがわ)がまじわる唯一(ゆいいつ)の宿(やど)。渡し場(わたしば:舟(ふね)が発着(はっちゃく)するばしょ)としてさかえました。
当時(とうじ)をしのぶたてものとして、本陣跡(ほんじんあと)・舟つなぎ石などがあります。
「八幡宿(やわたじゅく)」
皇女和宮(こうじょかずのみや:第14代徳川家茂(とくがわ いえもち)の正室(せいしつ))がとまった宿(やど)。この宿をでると瓜生坂(うりうざか)の難所(なんしょ)ごえとなります。本陣門(ほんじんもん)が往時(おうじ)をしのぶことができます。
当時(とうじ)をしのぶたてものとして、八幡神社(やわたじんじゃ)・高良社(こうらしゃ)などがあります。
「望月宿(もちづきじゅく)」
江戸時代には本陣(ほんじん)、脇本陣(わきほんじん)、問屋(とんや)など29軒(けん)がのきをならべにぎわった。真山家(さなやまけ)屋敷(やしき)(国重要文化財)など宿場(しゅくば)のおもかげをのこし、往時(おうじ)のはんえいぶりをつたえている。
当時(とうじ)をしのぶたてものとして、望月歴史民俗資料館(もちづきれきしみんぞくしりょうかん)などがあります。
「茂田井間の宿(もたいあいのしゅく)」
望月宿と芦田宿(あしだじゅく)のあいだの宿として旅人でにぎわった。
当時(とうじ)をしのぶたてものとして、(国登録有形文化財)武重家(たけしげけ)などがあります。