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第20回遠い昔から新しい時代を築いてきた佐久の人々

更新日:2022年2月16日

鎌倉殿を世に送り出した偉人たちのふるさと佐久

 中世信州佐久は時の政権との深い関わりから度々権力闘争に巻き込まれ、あげくは一族ことごとく滅ぼされるという族滅を受け、佐久平では古文書から貴重な文化財まで、実に多くのものを失ってしまいました。
 残された数少ない古文書に、市川五郎兵衛家が武田信玄から佐久市内三分と、瀬戸の土地を給付された宛行状(あてがいじょう『五郎兵衛新田古文書目録第4集市川家文書』)があります。ところでその三分と瀬戸の間に平賀区があります。

 平賀荘の平賀氏
中世平賀氏が領した平賀荘は『新編信濃史料叢書』の記述によると、佐久平の端から端まで、それは北は浅間山麓から南は蓼科山麓までと、実に広大でした。
 これほど平賀氏が栄えたのは、源頼朝が平賀義信を御家人筆頭に、また義信の二男朝雅を頼朝は猶子(ゆうし・自分の子)とし、北条時政と牧の方との間の姫に縁付けていました。(『吾妻鏡』)
 元久2年(1205年)北条時政と牧の方は三代将軍源実朝を廃して、平賀朝雅を新将軍にと画策します。のちの時代「牧氏の変」と呼ばれるその陰謀は、北条義時と政子により鎮圧され、時政は追放、平賀朝雅は義時により死罪とされてしまいました。(『六代勝事記』)

佐久の人々の活躍は後世まで
 これで平賀氏の命脈が絶えたかというと、平賀義信の長男惟信の子大内惟義は後鳥羽上皇に仕え、一族は堂上貴族まで昇進しています。
  しかし承久の変で皇族方に組したため族滅され(『明月記』)かっての平賀荘に今は渋沢栄一の石碑は世に轟いていますが、中世平賀氏の活躍を語るものは何もありません。 

しかし社会の発展に身を挺して尽くすという美風は残され、この企画第16回の渋沢栄一が顕彰した田中翁や、またその頌徳碑の裏面に刻まれた佐久の先人たちは、下段で写真説明のとおり、米国最高裁判所・ニューヨーク市庁舎・同市立図書館・ワシントンスクウエアのシンボル平和凱旋門ではワシントン像など、巨大偉人人物像制作の足跡を残す川村吾蔵を世に送り出したり(『彫塑家・川村吾蔵の生涯』)、明治のころ鉄道信越線の開通により廃れようとしていた、佐久から深谷へ至る内山峠越えの中牛馬(江戸時代の物流業)を、現代に続く物流の大動脈に進化させたり、と時代は変わっても社会の進歩への情熱は変わりがありません。                                                                    〔根澤茂〕

 

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