龍岡城五稜郭
更新日:2022年6月14日
龍岡城五稜郭は、慶応3年(1867年)に田野口藩主「松平乗謨」(まつだいらのりかた)によって造られ、函館の五稜郭とともに日本に2つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭です。
乗謨は学才・識見ともにすぐれ、幕府の重要な役を歴任しました。また西洋の軍学に関心を寄せており、フランスのヴォーバン元帥が考案した稜堡式築城法を採用してこの龍岡城五稜郭を築城しました。
星形の城の起源は、16世紀頃のヨーロッパで戦乱の相次ぐ中で町全体を城壁で囲んだ「城郭都市」が数多く造られましたが、銃や大砲が発達してくるとこれに対抗して防御側の死角を少なくする構造が考案されたそうです。
この構造を取り入れた龍岡城は元治元年3月(1864年)より着工して藩主の政務と住居をかねた御殿や大手門、東通用門などが完成し、慶応3年4月(1867年)に竣工祝いを行っています。
しかし堀は三稜堡をめぐるだけで、南西と西側二稜堡を囲む約270mは未完成でした。建物も瓦は全部準備されながら一割程の使用であったと伝えられています。
明治維新により江戸時代が終わると、龍岡城五稜郭の中のお台所に、近くのお寺(蕃松院)から子どもたちの学校「尚友学校」が移転し、現在も佐久市立田口小学校の校地として使われており、お城の中に学校が建設されているという全国でも珍しい小学校となっています。
また、松平乗謨は維新後に「大給 恒」(おぎゅう ゆずる)と名乗り、日本赤十字社の設立に尽力され、龍岡城五稜郭の中にその胸像が建立されています。