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「小池軍医とふじ学徒隊」「糸洲の壕」その他(11月28日)

更新日:2024年1月15日

・アナウンサー 
 こんにちは。ここからはスタジオに栁田清二佐久市長を迎えて最新の市政、そして気になる社会情勢などとともに佐久市の今を、そしてこれからを市民の皆さんにお伝えしていきたいと思います。今月もどうぞよろしくお願いいたします。

・市長 
 はい、よろしくどうぞお願いいたします。

・アナウンサー 
 早いもので季節は11月から12月師走です。行政などは年度ですから令和5年度はまだしばらく続くわけですけども、西暦で考えると、この2023年も残り1か月ほどとなりました。ここまでの1年間を振り返ってみて、現在どんなお気持ちをお持ちでしょうか。

・市長 
 マスクを取ってもうだいぶ時間が経つような、半年ぐらい経ったという状況であります。1年前は行動制限がかなりありました。そういう意味では少し活動が活発化した1年でした。今年の5月からそのようであったと思います。また一方でどうでしょうか。こんなにも激しい物価高騰がやってくるということも思いもよりませんでした。そういう意味では予期せぬことが起きる時代だなということをつくづく感じています。

・アナウンサー 
 物価高騰と言いますと、今後佐久市も「39QR」というデジタルクーポンを発行し、最大お1人1万円のクーポン活用ができるキャンペーンが12月4日から始まります。特にスマートフォンをお持ちの方は積極的なご利用をいただきたいと思います。また、仮にスマートフォンを持っていなくても、ご家族どなたかが持っていればその方が代表してこのクーポンをインストールすることもできます。詳しい情報などは広報佐久などに掲載されております。これも師走に向けての経済対策、物価高騰対策になろうかと思います。ぜひ有効活用いただきたいと思います。2023年も残りわずかとなってまいりました。ぜひ皆さんが平穏無事にこの師走を過ごせることを願いたいと思います。
 今回もこの番組内では様々な話題や情報を紹介していきたいと思います。今回は平和について視聴者の皆さん、市民の皆さんと一緒に考えていきたいと思います。
 1945年太平洋戦争が終戦となり、現在、歴史とともに戦争を語れる方の減少、あるいは記憶の風化などが問題視されています。今回のテーマは佐久市と沖縄県との平和について考えていきたいと思います。まずこの問題を語る上で、佐久市出身の軍医・小池勇助さんというお名前はきっと視聴者の方も大勢の方がご存知だと思います。小池勇助さんは佐久市野沢出身で元々は眼科医をされていました。太平洋戦争では軍医として沖縄に行き、現地では女学生からなる学徒隊というものを率いておりました。いわゆる野戦病院を指揮された方で、佐久の先人にも選定されている方です。佐久市と太平洋戦争を語るうえで切っても切れない方です。

・市長 
 今の佐久市のエリア、10万人都市としてのこのエリアにおいて、先の大戦で犠牲になられた方は2,769名いらっしゃいます。いかに大きな国際紛争であったかということが見て取れる数字だと思います。小池軍医の最期の地となりましたのが、沖縄県糸満市にあります「糸洲の壕」といわれる洞窟です。沖縄県ではそう言ったものを、ガマという表現をいたします。昭和20年3月、彼らは豊見城というところで野戦病院を行っていました。昭和20年4月1日、沖縄本島の真ん中で西海岸にある読谷村あたりから米軍が上陸する形で国内唯一の地上戦となります。そこからかなり戦況が激化し南に進んできたということで、小池隊は豊見城からさらに南の糸満市まで移動しました。そして、野戦病院をこの糸洲の壕という洞穴・ガマに決めました。戦闘は沈静化することなく6月23日、組織的戦闘がもうできなくなり最高司令官の牛島さんをはじめ首脳部が自決をしました。これにより指令が出せなくなり、組織的戦闘が不可能という状況から数日後の6月26日、小池勇助軍医は従軍していたふじ学徒隊の女子学生たちに対し解散命令を出します。積徳高等女学校という学校の生徒25名が看護の勉強などをして小池隊に従軍していたということです。解散のとき小池軍医は「あなたたちは非戦闘員でもあるのだから、必ず生きて、この大戦争の悲惨さというものを語り継いでください。」と訓示で述べられました。結果的には25名のうち22名が生還することができました。女子学生からなる看護隊が沖縄の戦地で慄く惨状というのがありますが、ふじ学徒隊の生存率は他の隊をかなり引き離し、圧倒的な数で生還することができたということです。その訓示をされた小池勇助軍医ご自身はその場で自決をするわけですが、しかしながら、語り継いでいくべきこの戦争の悲惨さというものを、18歳、19歳のふじ学徒隊の少女たちに託したという事実関係があります。

・アナウンサー 
 佐久市出身の軍医・小池勇助さんは、太平洋戦争で沖縄県糸満市「糸洲の壕」という洞穴のようなところで、女子学生たちを率いて野戦病院を行っていた。佐久市としては、糸満市にある「糸洲の壕」を佐久市出身の小池勇助さんのゆかりの地として、ぜひ大勢の佐久市民の皆さんにも知ってもらいたい。ひいては、佐久市としても何か動きができないか。このような思いのもと、栁田市長は11月1日から4日まで実際に長野県の皆さんと同行し、沖縄県糸満市などを訪れてきました。
 こちらには糸洲の壕の映像があります。実際に行かれた際、市長に撮っていただいた動画でもあります。一緒にご覧いただきたいと思います。こちらが慰霊碑とそしてその脇から糸洲の壕のほら穴の中へ入っていく様子などをご覧いただいていることと思います。こういった場所で実際に戦争が行われ、さらには小池勇助さんやふじ学徒隊の皆さんがいろいろな思いのもとに野戦病院の活動をされていました。まずはこちらの映像を皆さんにご覧いただきました。今回市長はこの糸満・糸洲の壕を訪れ、率直にどんな思いを感じましたか。

・市長 
 私は今回で3回目の訪問でした。糸洲の壕という場所は、沖縄戦の中においてもかなり激しい戦闘が繰り広げられたところであります。今、多くの長野県の高校生が平和教育・修学旅行として沖縄県を選ばれるわけですが、この場所というのはほとんど知られていない場所です。ふじ学徒隊の皆さんは当時18歳・19歳であったそうですので、修学旅行に行く高校生とはほぼほぼ同年代です。修学旅行に行く高校生が、当時戦地だった沖縄や糸洲の壕で当時を思いたち尽くすことで感じるものは大きいのではないかなと思います。
 壕の中には少し水が流れ、川があるという場所です。洞窟の中に板を並べて、2層3層になってベッドのような形になったその場所に傷ついた兵士が横になっていた。しかし、実際は食料、医薬品などの衛生的なものはほとんどない状況でした。6月26日を迎える日まで大変過酷であったということです。一方で戦争というものが、どのぐらい人に深い傷を残すかということを知るためにも必要な教材となってもらいたいなと思います。

・アナウンサー 
 現在、沖縄県糸満の地で平和ガイドとして、平和の大切さや思いを説いている井出佳代子さんという方がいらっしゃいます。実はこの方は佐久市から沖縄の糸満に移住された方でもあります。そして糸満の地で、沖縄からは遠く離れた地でもある佐久から来た皆さんに、または平和を求めに来た皆さんにガイドとしていろいろな思いを伝えているということです。
 今回番組内では、ただ今より現地沖縄糸満の井出佳代子さんと電話を繋いで、現地の状況あるいは井出さんの思い、平和に対する考えを聞いてみたいと思います。

・井出佳代子さん 
 はい。こんにちは。

・アナウンサー 
 こんにちは。長野県佐久市の佐久ケーブルテレビスタジオでございます。

・井出佳代子さん 
 はい。こんにちは。今日はよろしくお願いします。

・アナウンサー 
 よろしくお願いします。隣には栁田清二佐久市長もいらっしゃいます。

・市長 
 こんにちは。先日沖縄に参りました際は、大変にご相談に乗っていただき、またアドバイスをいただきましてありがとうございました。

・井出佳代子さん 
 こちらこそ来ていただいて本当にありがとうございました。

・市長 
 井出さんにも写真も見ていただきたいと思います。1枚目の写真は令和5年今年の1月のものです。佐久市議会令和政策研究会という会派の皆さんが、沖縄糸満市糸洲の壕を訪れた際の写真です。このような状況であったのですが、糸満市に移住された井出佳代子さんにより、現在糸洲の壕につきましては入場することが基本的にはできています。井出さんには現地での清掃などしていただき本当にありがたい限りでございます。

・井出佳代子さん 
 いえいえ。はい。

・アナウンサー 
 そして井出さん、井出さんは現在平和ガイドとして高校生や修学旅行生ですとか、現地を訪れた方に様々な想いを説いていると思います。日頃はどんな活動をされているのでしょうか?

・井出佳代子さん 
 私は現在いくつかの平和ガイド団体に所属していまして、そういったところに依頼のある修学旅行での平和ガイドですとか、主に南部戦跡になりますが、南部戦跡での史跡などを案内しています。

・アナウンサー 
 なるほど。今回この番組の中では、佐久市出身の軍医・小池勇助さんを取り上げて皆さんとともに一緒に考えています。この小池軍医といいますと糸洲の壕があげられます。本当に有名なところでもありますが、井出さんから見てこの糸洲の壕というところはどういった思いがありますか。

・井出佳代子さん 
 私が佐久から糸満に引っ越したのは11年前です。その時にはもちろんそういったところが自分のうちの近くにあるなんてことも全然知らなかったです。でも、実際平和ガイドの勉強をして、平和ガイドとしていろいろ案内する中で、本当に自分の住んでいるすぐ近くに、佐久市出身の軍医さんがいらした壕があるということで、まずは自分も知りたいという思い、そして、もしそこを案内する機会があったら案内してみたいなとはずっと思っていました。ただ、糸洲の壕は荒れており、数年間ずっと入れないような状況でした。実際にご案内する機会がなく、思いだけがあったわけです。なかなかその後も入ることができませんでした。1回だけ、もう7、8年前にガイドの学習会で中に入ったことがあったのですが、その後は全然。草ボーボーになって入れなくなってしまったので、実際にご案内することはできないままこれまでいました。

・アナウンサー 
 井出さんも、実際に現在は糸満市にお住まいになられ、そしていろいろな思いや考えがあると思います。今日は大勢の佐久市民の皆さんがこの放送をご覧いただいております。改めて井出さんから伝えたい平和の思い、あるいはご自身のお考えを伺いたいと思います。今どんな思いがありますか。

・井出佳代子さん 
 戦後78年が経ち、戦争はどんどんどんどん遠くなっています。そして、戦争を体験された方たち、語り部の方たちも本当に次々といなくなってしまって、ものすごく戦争が遠いものになってしまっています。でも、忘れた頃に戦争はやってくるのだろうという思いがすごくあります。というのは今の日本の状況を見ていると、軍事費がどんどん増えて、この沖縄に関しては絶対に本当に軍備拡張しているなというような動きがあるのでとても怖いなと思います。だから私達はあの戦争を過去にあった終わった話ではなくて歴史の一つの事実として捉えること。そこから、戦争はどうやって起こるのだろう、戦争になったら何が起こってしまうのだろう、ならばそういう恐ろしい戦争を2度としないためにはどうしたらいいのだろう、ということを平和学習の際やガイドをする私達の話の中から、皆さんが何かきっかけを掴んでくれたらいいなとそんな思いでガイドをしています。

・アナウンサー 
 はい。実際に市長も今回この糸洲の壕を訪れ、井出さんともお会いになりいろいろお話されたかと思いますが、改めて井出さんのお話を聞いてみてご自身のお考えなどはいかがですか。

・市長 
 はい。78年前の出来事の中において、ふじ学徒隊という少女の皆さんが非常に複雑な心境でいたということ。また、この時代背景なども含めて「ふじ学徒隊」という映画が現在できています。これは城間あさみさんという方が制作に携わられ、先頃のわがまち佐久・市民講座でも講演をしていただきました。この映画「ふじ学徒隊」は様々な面があります。私も非常に驚く証言の一つがありました。小池軍医が「命を大切にして、この悲惨な戦争を語り継いでください。決して死ぬことのないように。」というように言われた時、ある少女が感じたことに「大変にありがたい言葉だと思った。しかしそれと同時に、恨めしい気持ちも湧き起こった。」ということです。これは今の価値観で言うと少し理解がしづらいことです。しかしながら当時というのは、命をなげうってでもこの国のために戦うという教育を受けた方々です。そんな方々にとっては小池軍医の言葉は、非常に戸惑いがあったことと思われます。
 そして今、時代を超えて小池さんの思いを深く考える機会を得る、そういう機会にしたいものだと思います。また沖縄というところは本当に今、リゾートで大変に華々しい発展を遂げています。けれどもわずか78年前にはこういった背景があったということを多くの皆さんに知っていただきたいものだなと思います。
 たまたまではありますが、小池さんという方は、旧制野沢中学校の3回生ということで、非常に地域にも根ざした暮らしをしていた方です。そういったご縁で本当にある意味で地理的には身近だった佐久の方が、沖縄で戦争の経験をしたということ、それが史実に基づくということ、そして歴史に基づいた現場に立つことができるという環境を作っていくことが非常に重要なのではないかと私は思います。

・井出佳代子さん 
 はい。そうですね。

・アナウンサー 
 今回この時間は、佐久市から沖縄県糸満市に移住されて現地で平和ガイドとして活動されております井出佳代子さんとお電話を繋いで、現地の様子、あるいはこの小池勇助さんにも非常にゆかりの深い糸洲の壕の状況なども解説をいただいております。
 井出さん、そろそろ電話の時間も残りわずかになってしまったのですけれども、改めてこの放送をご覧の皆さんに、現地の井出さんからのメッセージがありましたらお願いしたいと思います。

・井出佳代子さん 
 これは沖縄の方たちがとても大事にしている言葉です。「命どぅ宝( ぬちどぅたから)」という言葉です。「命どぅ宝」とは、命はかけがえのない宝物だよという意味の言葉です。小池軍医も「絶対に死ぬな、生きて帰れ」、「命を捨てるなよ」というふうに伝えてくれたと思います。今私達の日常では、命はあって当たり前と思っています。でも実際に戦争という状況になると、命というのはものすごく軽く扱われてしまうものです。でも、やっぱり何があっても命というものは、一人ひとりのかけがえのない宝物なので、その命が2度と戦争というものによって奪われないようにすること。生きられる限り生きるということ。そして私達はいつも社会の動きに敏感でいて、戦争に向かおうとする動きがあったらそれを一つずつなくしていく、そういう努力が必要じゃないかなと思います。本当に命を大切にしたいという思いです。

・アナウンサー 
 とても重い言葉です。本当に決して忘れてはいけない重い大切な言葉だと思います。井出さん、今後佐久市としてもこの沖縄糸満との繋がり、あるいはこの糸洲の壕との繋がりについて行政民間一体となっていろいろ考えていきたいという思いもあります。また、番組内でもそういった状況を伝えていきたいと思います。そして、私もぜひ機会をみて現地にも伺いたいと思っております。またいろいろな情報を教えてください。

・井出佳代子さん 
 はい、わかりました。ぜひ本当に糸満の糸洲の壕にもいらしてください。

・アナウンサー 
 本日はお忙しいところどうもありがとうございました。

・市長 
 どうもありがとうございました。

・井出佳代子さん 
 どうもありがとうございました。

・アナウンサー 
 はい。ということでこの時間は、ここ佐久市から沖縄県の糸満市に移住をされ現地で平和ガイドとして活動されております井出佳代子さんにお話を伺いました。
 市長、やはり現地の方の声・思いというのは本当に刺さるものがありますね。

・市長 
 そうですね。「ふじ学徒隊」というドキュメンタリー映画で、当時はどういうことが起きていたのかをよく理解をし、現地糸洲の壕へ行くというのが私は重要なことだと思います。この映画を作るときも制作者サイドは高校生が見て分かる仕立てにしているということです。例えば、ふじ学徒隊の皆さん25名が小池軍医と行動をともにするのですが、その際も希望を取っていたということです。女学生たちに「今度学徒隊という部隊が作られます。その中であなたは学徒隊として参加しますか、または参加しませんか。」そう言って参加するとした方が25名だった。全員が全員そのまま強制的に連れていかれたというのではないということでした。よく特攻隊などでも、それが命令であったのか、自分の選択であったのかということが問われることがありますが、この時は文書でそういうことを行っていたようです。中には、私は学徒隊には参加しません、ということで学校から離れた方もいらっしゃったりするようです。そういった歴史的経過が残っているというのは、非常に珍しいと思いましたし、正確な証言がこのふじ学徒隊という映画では記録として残してあるということです。高校生の修学旅行だけに向けたものではありませんが、現在沖縄には修学旅行で50校も行かれているわけでありますから。そういったドキュメンタリー映画を観たあと戦地だったその場に立ち、感じていただきたいと思います。よく、ひめゆりの塔は聞きますよね。そのひめゆりの塔という場所から本当に近いところです。車で10分足らずのところであります。そこが長野県のそして佐久市の旧制野沢中学を卒業した小池さんという方がたどった歴史であり、知ることが必要じゃないかと思います。
 田中角栄元総理がお話になっていたことがあります。「私達の時代はいい。戦争経験をしていたから。戦争もやってみて本当に地べたに叩きつけられてね、経験して、もう戦争のない社会へというふうに思った。私達の生きている間は経験があった。しかし戦争の契機がなくなった時代にこそ、本当に気をつけなきゃいけないのだ。」当時の演説や文章が今に残されています。そういった平和について学習する機会・時間というものを、今を暮らす大人として環境を作っていくべきだと私は思います。

・アナウンサー 
 はい。今回皆さんはどんな思いを感じていただけましたでしょうか。今回は佐久市と沖縄県糸満市とのいろいろな関係性などを考えてきました。今、長野県としても沖縄県とは3月に交流連携に関する協定書というものを結びまして、県としても阿部知事の考えのもと、積極的に沖縄とも繋がっていきたいという考えもあるようです。その中において佐久市としては、佐久市出身で佐久の先人にも選ばれております小池勇助軍医にゆかりのある沖縄県糸満市の糸洲の壕というところの整備について、今後考えていきたいということでした。市長の思いとして、この糸洲の壕を今後の佐久市としてはどのように関わっていきたいのか、または整えていきたいとお考えですか。

・市長 
 長野県と沖縄県との交流は、様々な形で活発化していくと思います。またそういったものが進むことによって今後においての希望というか、現実的な夢ではありますけれども、定期便でしょう。松本・那覇の定期便ということになろうかと思います。沖縄訪問をご一緒しました臥雲松本市長さん、あるいは小川千曲市長さんはやはり観光というものを交流のイメージとされています。松本市は上高地など美しい景観がありますよね。あんなにも美しい自然。あるいは温泉場としての地位を占める上山田温泉を有する千曲市、そういう観光面での交流が展開をもって進むと思います。そういった中において佐久市が担うべきものはどこかとなった場合、平和教育についての立場、あるいはまた環境設定を行うことで役割を担っていきたいと思っております。幸いにして沖縄の観光コンベンションビューローの下地会長をはじめ、経済界も含め大変人脈も広がり応援体制をとっていただいていますので、その際はスムーズに進んでいくのではないかなというふうに期待しています。

・アナウンサー 
 また今後の情報などはこの番組内でもお伝えしていきたいと思います。
 今回番組内では、佐久市とそして沖縄県との関係性、そしてこの平和というものを考えてきました。戦争が終わってときが経つからこそ、今だからこそ我々ができる思い、そして考え・行動というものを、皆さんにも一緒に考えていただけると思います。
 ここまでは栁田清二佐久市長にお話を伺ってきました。今回もどうもありがとうございました。

・市長 
 はい、どうもありがとうございました。

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