このページの先頭です
このページの本文へ移動

第22回 平和の礎 用水開発 その1

更新日:2022年4月13日

用水脇に残されたふる里の歴史

戦乱の荒廃から豊かな郷土を復興 した先人たち
 報道でウクライナ侵攻の悲しい映像を見ない日はありません。歴史は繰り返すのとおり遠い昔、約450年前のことです。大変栄えていた佐久平は織田信長亡きあと、信濃制覇を目指す徳川家康と小田原北条氏の争いの場となり、焦土と化してしまいました。
 戦国の世が終わった時、佐久の祖先たちは力を合わせ『市川中興家譜』の記録によると、いくつもの用水路の開発を成功させ、現在に至る繁栄の郷土を築きました。
 口絵写真は五郎兵衛が用水工事で大変な苦心をした「築堰」と呼ばれる軟弱地盤にうず高く土盛をし、低地を越えて用水をより遠方に通水した箇所です。
 

武士による新しい時代を開いた佐久
 古文書の中の佐久の人々の活躍ぶりです。歴史上での評価は分かれますが、鎌倉幕府を開いた源頼朝と佐久の祖先たちは、建久4年(1193)源頼朝富士の巻き狩りの前年、市内長土呂を拠点に浅間山麓で巻き狩りを行った。との『信州佐久郡庄附里附村々控』建久3年(1192)があります。
 また大河ドラマ『鎌倉殿と13人』では頼朝の大恩人佐藤浩市演ずる上総介広常の子は甲斐源氏と結ばれています。そしてその孫にあたる大井太郎が岩村田に居館を構えたことから、戦国の動乱を迎えるまで、岩村田は信濃の国府松本をしのぐほどの繁栄をしていました。(『四隣譚數』)  
 

五郎兵衛用水路脇に鎌倉時代の遺跡が
 寛永7年(1630)市川五郎兵衛は水源から五つの山並みを越え、古代からの勅使牧だった矢嶋原まで、大変な苦心のすえ用水路を完成させ、今に続く新田村を開発したといわれています。
 写真は昭和31~32年(1956~1957)碓氷高さんが撮影した昭和49年(1974)五郎兵衛用水近代的改修前の築堰風景です。
 ところで五郎兵衛新田村は江戸時代の始まり、用水開発により初めて開かれた村、とされています。しかし不思議なことに、用水築堰周辺には、貴重な鎌倉時代の遺構がいくつも残されています。
 写真中央の寺院には鎌倉時代の阿弥陀如来と貴重な胎内文書が、また同写真右上の一本松の下には中世の石祠が大切に祀られていました。


 

用水開発よりはるか以前の石祠
 山の神石祠が鎮座していた写真の一本松は現在の浅科小学校の南300mのほどにありました。その周辺は御馬寄勝手神社の境内地とされ、石祠の近くには流鏑馬・的場などの地名が残されていることから、鎌倉時代には武士の館があったと『佐久市の文化財』で説明がされています。
 佐久市有形文化財に指定されているこの石祠、現在は御馬寄勝手神社境内に移されています。この石祠には永徳3年(1383)という銘が残され、この時代は建武3年(1336)に始まった南北朝の内乱の時代でした。
 でもこの時代、佐久と京の都との関係ですが、望月の駒の駒曳で知られる宮廷行事は古代から当時も連綿と続けられており、この年8月16日の開催は延引されたと『愚管記』に残されています。

西国へ向かった鎌倉武士団の記憶が
 今は安全な場所に移されましたが、水田地帯の中央に位置する寺院に鎌倉時代の阿弥陀如来の仏像が伝えられていました。その胎内には、平安時代末、貞応年間(1222~24)の古文書が収められています。
 この貴重な古文書について、長野県立歴史館の村石正行さんが『年報三田中世史研究10』(2003)に発表された「千葉一族の西遷と大和国宇野庄―『鎌倉遺文』未収『信濃国佐久郡長念寺阿弥陀如来立像胎内文書』から—」によればこの仏像と、胎内文書にゆかりの人々は、千葉氏、上総介広常の関係者ではないかということです。彼らは西国へ向かったようです。
 

お問い合わせ

社会教育部 文化振興課
電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
ファックス:文化振興・文化施設係:0267-64-6132  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5322

お問い合わせはこちらから

本文ここまで

サブナビゲーションここから
ページの先頭へ