このページの先頭です
このページの本文へ移動

第10回 渋沢栄一の『内山峡詩』碑の建立にかけた佐久の先人の思い

更新日:2021年3月7日

渋沢栄一の『内山峡之詩』碑建立にかけた佐久の先人の思い

「内山峡之詩」によせた佐久の人々の思い
 令和3年2月14日からNHK大河ドラマ『青天を衝け』の放送が始まりました。ドラマ題名は、佐久市疣水地区の断崖絶壁に、昭和15年(1940)11月、佐久の祖先たちが、大変な苦心のうえ建設した渋沢栄一の文学碑にあります。
渋沢栄一と佐久の人々が極めて関係深いことは、これまでも館収蔵文書から幾つかエピソードでお伝えしてきました。
 ところで五郎兵衛記念館に、木内芳軒の外孫で『内山峡之詩』碑建設と、除幕式当日でも大役を努めている木内敬徳先生が記された『内山峡詩』碑の説明、合わせて当時の人々が未来の私たちにかけた願いを記した貴重図書があります。
 表紙写真を載せてあります『渋澤青淵先生の詩「内山峡」』は、木内敬篤先生の原文を平成7年2月25日に敬篤先生のご子息木内靖氏が筆写したものです。
 毛筆でしたので翻刻し、関係者のご了解を得てこの度公開します。なお、両先生が生前に、本文中の難解な語句について、読みと説明をくださっていますが、さらに市民の理解を図るため、記念館の翻刻作業で少しく字句の説明を加えました。

国際平和を願った渋沢栄一と佐久の人々 
 内山峡詩には、渋沢栄一の論語への思いが吐露されています。『論語』の『子貢、政(まつり)を問う』において、孔子は、弟子の子貢に絶対の平和と、軍縮を説いています。栄一もまた心からの日米平和を願っていました。
 昭和2年(1927)中国大陸で満州事変が勃発し、日米関係に暗雲が立ち込めてきたころ、渋沢栄一は87歳という当時としては大変な高齢、そして前年からの重い喘息と、気管支炎を患う病身でありながら、2日がかりで伊豆の下田へ心配だったのでしょう長女穂積歌子が付き添い出向いています。
  それは関良基さんが作品社『日本を開国させた男、松平忠固』の中で、詳しく記されていますが、維新の動乱で日本の貿易関税は5%という不平等関税になってしまいましたが、もともとの日米和親条約では、関税障壁25%の関税自主権を認められていたということです。
 渋沢栄一の大病を押しての下田行きは、日本に初めて関税の概念を紹介し、日本のために25%という優遇関税を締結してくれた立役者、大恩人の初代アメリカ総領事ハリス記念碑除幕式、日米の恒久平和を願うのための参列でした。
 同じ頃、佐久市内の小学校でも、週刊「さくだいら」No.1131で「渋沢栄一の尽力で日本にやってきた『青い目の人形』』と、大きく紹介されたように、今も市内泉小学校に残されている、子供たちからの日米平和を願う『青い目の人形』の親善大使があります。
 内山峡詩の建立された昭和15年(1940)という年は、中国大陸満州で始まった日中戦争が10年、そして翌年には太平洋戦争に拡大するという大変な節目の年でした。
 内山峡詩除幕式は、内山尋常高等小学校長の開会の辞、100名の児童による内山峡唱歌の斉唱が記録されているように、佐久の人々の平和への願い、第2、第3の佐久からの渋沢思想を継ぐ優駿の育成を誓っているようです。

昭和2年(1927)渋沢栄一のタウンゼント・ハリス記念碑除幕式列席の記録です。『渋沢栄一伝記資料』第38巻P343からP350  公益財団法人渋沢栄一記念財団
渋沢栄一の伊豆下田に同行した長女穂積歌子の子、晴子は市川五郎兵衛の縁者市川三喜と後に結婚しますが、渋沢翁の日常記録を始め、素晴らしいエッセイ集を残しています。
                              (佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂(ねざわしげる)

PDF形式のファイルを開くには、Adobe Acrobat Reader DC(旧Adobe Reader)が必要です。
お持ちでない方は、Adobe社から無償でダウンロードできます。
Get Adobe Acrobat Reader DC (新規ウインドウで開きます。)Adobe Acrobat Reader DCのダウンロードへ

お問い合わせ

社会教育部 文化振興課
電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
ファックス:文化振興・文化施設係:0267-64-6132  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5322

お問い合わせはこちらから

本文ここまで

ページの先頭へ