第12回「内山峡之詩」碑と尾高長七郎を守り抜いた信州佐久
更新日:2021年3月7日
「内山峡之詩」碑の建立に情熱を傾けた人たち
渋沢栄一が幼いころから訪れ、尾高長七郎を守り抜いた信州佐久下県村名主木内善兵衛宅 撮影五郎兵衛記念館(SN)
同級生が始めた「内山峡之詩」碑建立
昭和15年(1940)11月、信州佐久内山峡で開催された『内山峡之詩』碑除幕式、その出席者や、経過を知る書籍に、宮澤康造編「佐久の生んだ大詩人・昭和の良寛『三石勝五郎』人と作品」櫟出版があります。
その本文中に、旧制野沢中学最初の卒業生、三石勝五郎と木内敬篤、そして小林義介との深い交友、そして彼らが力を合わせ『内山峡之詩』碑の建設を行っていった経過が記されています。
また『内山峡之詩』作品紹介としては、同じく宮澤康造による『佐久の文学碑】いちい書房があり、そのP156からp160に、『五、内山峡の道 1渋沢青淵の内山峡の漢詩(巌碑)』として、作品解説が詳しく記されています。
建立計画者と文化施設
ところで折角、NHK大河ドラマ『青天を衝け』で佐久平が脚光を浴びたので、同じように三石勝五郎たちのゆかりの場所も知られるようになればと思います。
例えば、株式会社美術年鑑社初代社長由井一二は、三石勝五郎を慕い、また佐久の発展を願い、50余年間に渡りコレクションして来た、何れも珠玉のような美術作品を佐久市に寄贈、それをもとに佐久市立近代美術館・由井一二記念館が昭和58年(1983)開館できているなど、信州佐久には素晴らしい観光スポットが沢山あります。この機会にコロナ禍でもなければ、一人でも多くの方々に、私たち佐久市の誇る文化施設を利用してもらいたいのが願いです。
「積善の家余慶有りの碑」嘉永7年(1857)木内惺堂書、場所は木内善兵衛旧宅 撮影五郎兵衛記念館(S.N) 木内芳軒の兄で渋沢・尾高に最初に漢学を授けた人。嘉永7年に亡くなる年の絶筆
大切にしたいこと
でも、一番心に懸けなければならないことは、渋沢栄一が心から慕った信州佐久下県村の木内芳軒のご生家です。
今でも渋沢栄一が訪れた時と同じままの家に、ご子孫がごく普通の日常生活を送られています。私たち佐久市行政により、普通の暮らしに影響を及ぼしてはいけません。そのようなことから木内芳軒生家が特定できないよう、これまで屋号とか通名を使わず、五世代も前にご活躍された木内源五郎の雅号『芳軒』を使わせて頂きました。
尾高長七郎を守り抜いた家
ところで、NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、これから尾高長七郎が登場します。彼を渋沢家からの依頼に応え、将に身命を賭けて守り抜いた人に木内芳軒の父、実業と学問を両立させていた木内善兵衛がいます。この機会にお名前を出して顕彰したいと思います。それにつけてもどうか興味本位の渋沢の照会、またご訪問により、木内家の日常生活が脅かされないようお願いします。
木内善兵衛とは
木内善兵衛は、この界隈きっての豪農でした。秋になると籾の収納高が木内寛氏の「岸野村誌」によると、毎年500俵から600俵、また「内山峡之詩」碑が残されている内山峡にも広大な山林を所有していた大資産家でした。
変わっているのは、善行を積み「積善の家」として代官からご褒美に名字を許すというお達しを、誰でも行う人の道だからと返上している謙譲の美徳の人で、幕府領の下県村の名主職を代々努めて来ています。
幕府領の代官役宅のあるお膝元の名主職が、いくら渋沢家からの依頼とはいえ、追われている尾高長七郎を匿い、そのうえ漢学者の人脈を生かし京都まで安全に送り届けてしまいました。幸い成功したから良かったもの、もし露見すれば木内家は家族にも死罪、そして財産没収という処分が待っていた訳ですから、木内善兵衛の決断と実行、私たちは忘れてはいけません。
(佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂(ねざわしげる))
お問い合わせ
社会教育部 文化振興課
電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535 文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
ファックス:文化振興・文化施設係:0267-64-6132 文化財保護・文化財調査係:0267-63-5322