第15回 シーボルトが最も敬愛した北方探検家最上徳内と佐久
更新日:2021年5月25日
広い世界とつながっていた佐久
資料画像シーボルト『NIPPON』掲載最上徳内・川原慶賀画
大石学編『江戸幕府大辞典』(2009年、吉川弘文館)に依れば、江戸幕府の機構上、勘定奉行が長官を務める勘定所は、財政だけでなく、農政全般、治水の仕事もその範疇に含まれ、その土木技術者、土木官僚ともいえる役務を務めていたのが普請役という役人とされています。
この普請役の中に、日本近代化の大恩人シーボルトが最も尊敬した日本人と言われている北方探検家の最上徳内がいます。彼は間宮林蔵、近藤重蔵と並ぶ現在に及ぶ北方領土問題に重要な役割を果たしていますが、彼の知られていない功績に幕府の勘定所担当官として、国内河川水運の発展、林野行政の推進に大きな功績を残していることです。
渋沢栄一の深谷と佐久は深い関係
最上徳内は関東の河川を利用した水運行政の担当官として「関東十州川船改所用地図」を作成しています。
彼による水運行政の恩恵として、石原政雄著『中瀬河岸場』(1975)に記録された江戸時代深谷での廻船業の繁栄ぶりがあります。それはまた信州と渋沢栄一の深谷との深い関係ともなっています。
信州の長野平、松本平、佐久平で収穫された米は、陸路、群馬県の高崎まで、それぞれ領民の牛馬、または雇馬、宿場の継立等により陸送され、高崎倉賀野河岸からは小舟に乗せられ、幕府の規定により深谷市中瀬河岸場で大船に積み替えられていました。深谷からは利根川を河口の銚子まで下り、それから太平洋に出て、東京湾に入り江戸まで送り届けられていました。
信州米の扱い高を『中瀬河岸場』は、中瀬河岸廻船問屋の記録から、享保9年(1724)松代藩だけでも1万5千俵の扱いがあったと報告しています。上信国境の峠を米の道と俗称したとおり、実に膨大な米の移送が深谷を通じて行われていたことが分かります。
渋沢栄一・尾高惇忠・竹井澹如・折茂健吾の仰いだ相浜村の金龍寺の桜
情報の大切さは江戸の昔から
『五郎兵衛記念館古文書調査報告書第14集』の中に、『五郎兵衛新田村名主御用留書』文政2年(1819・翻刻堤浄)として、興味深い記録が書き留められていました。
『御用留書』とは幕藩体制を支える末端役と、村の自治を預かる最高責任者でもある名主が、職務上の記録としてそれぞれの村に残しているものです。その文政2年の記録に五郎兵衛新田村名主は、代官からの廻状で照会があった当時の殖産興業の記録件を残しています。
それは岩村田藩領上丸子村と上塚原村の領民から最上徳内へ、佐久一円の山野に自生する漆の実を採集し、漆油を搾油し和蝋燭作りの株を取得したいので、許可を得たい、ついては地元村々への利害関係確認の廻状です。
当時の人々にとり、植物種子からの製蝋が有利な生産活動であった証拠ですが、それはやがて上田藩が幕末の横浜開港に向けた準備期間中の安政6年(1859)、当時は開国前でしたのでどの日本物産に国際的需要と、競争力があるのか分からない手探りの状態の中でした。阿部勇著『上田は信州の横浜だった』上田小県近現代史研究史ブックレット21,2013年)に、安政6年『原町問屋日記』から上田藩の有力な輸出物産の一つに生蝋が挙げられていることから、岩村田藩の領民は先見の明があったようです。
『米蘭英仏露と結ばれた通商条約写本』 五郎兵衛記念館寄託相浜村古文書目録A64 安政7年㋀(1860)佐久の祖先は行動的です。大阪城内に奉職した村人は日本と世界の動きを貴重文献で故郷に伝えています。
鎖国の幕末に世界を意識していた佐久の祖先たち
佐久の人々が鎖国の江戸時代に海外を意識していた証拠に、資料写真として掲げた『米蘭英仏露と結ばれた通商条約写本』があります。
この時代19世紀中ごろは天候不順による凶作から農村部から都市へ職を求め人々の大きな移動がありました。
その人の流れに、相浜村の若者は大阪城代となった松平忠固のもと、大阪城内での奉職の機会を得ます。故郷相浜村へ自分の無事と故郷の若者たちの海外雄飛を願って貴重外交文書の写しを届けています。
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