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第17回 2022NHK大河ドラマも佐久に縁が

更新日:2021年7月9日

歴史に翻弄された佐久の大地

鎌倉幕府樹立の一大功労者は佐久の先人たち
 2022NHK大河ドラマは、天皇を中心とする権門体制から東国武士団による初めての武家政権、鎌倉幕府樹立への苦難の歴史描写「鎌倉殿の13人」に決まりました。
 このドラマのなかで取り上げてもらえるかどうか、鎌倉武士団が自らの政権を打ち立てられた陰には困難に屈せず、雄々しく新しい時代を切り開いて行った佐久の先人たちがいます。 
 それは口絵写真の平賀龍岡城を本拠とした平賀義信、彼は平治の乱で源頼朝の父義朝を最後まで守り通した4人の武士のひとりから、頼朝が生涯御家人筆頭として何より頼りにした名将でした。
 平賀氏の活躍ですが、平賀義信の子朝雅は父と同様に武蔵守に任官、そののち京都守護職、やがて伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という重要な6カ国の守護職をまでも兼任します。
 しかし子孫が鎌倉政権内の政争に巻き込まれ族滅されたため、今、佐久の平賀には鎌倉時代の人々の活躍した跡形はなく、佐久では知る人が少ないことは大変残念なことです。 

佐久の若人に希望を与えた渋沢栄一
 時は変わりますが大正6年(1917)5月、信州小諸で開催された地元青年会春季総会、この講師として招かれた渋沢栄一は、当時金融大恐慌で将来の展望に苦しむ満堂の若人たちに向い、希望をもって、そしてその夢の実現のために力いっぱい行動を起こすことを呼び掛けています。
(出典:特定法非営利活動法人 糸のまち・こもろプロジェクト発行【読み解き】渋沢栄一小諸講演演説全文 大正6年5月15日於信州小諸町)
 その精神には栄一が今から163年前、安政5年(1858)の10月8日、家業の莫大な取引の藍玉営業の途上、信州内山峡で読んだ漢詩「内山峡」にあり、それはドラマタイトルともなっています。
 その詩の一節「(いきおい)は晴天を()いて(ひじ)(かか)げて(のぼ)り 気は白雲(はくうん)穿(うが)って手に(つば)して()く」について、栄一のふるさと深谷の生んだ渋沢栄一研究の第一人者、河田重三さんはその著書「渋沢栄一の深谷」の中で、岩山をつき進む姿を、逆境にも負けずとばかり、勢いと気力で進む、栄一の生涯を通す気迫がこもったことばと表現しています。
 栄一は小諸でこの思いを改めて、熱く佐久の明日を担う若人に教え、導いてくださっています。
 シリーズ第10回でご紹介したように「内山峡」詩がよまれた82年後の昭和15年(1940)1月、詩の崇高な精神に感激した市内平賀の小林儀助は、旧制野沢中学の同窓生、昭和の良寛と慕われている三石勝五郎、そして栄一の佐久での恩師木内芳軒の孫、漢学者木内敬篤に相談し、その熱意は地域の大変な協力により「内山峡詩」碑を10月には、平賀義信の故地、往古「平賀郷」のうちの疣水に建立しています。
 それは栄一が生涯心の指針とした「論語」その中で孔子は反戦と軍縮を説き、渋沢栄一もまた最晩年まで日米友好と、非戦を願っています。戦乱で蹂躙された平賀であるからこそ、平和と繁栄、そして子供たちの健やかな成長を願う「内山峡詩」の碑を疣水へ建立したと関係者は記し残しています。
佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂

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