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第19回NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』と信州佐久

更新日:2022年1月23日

木曽義仲の足跡と五郎兵衛の用水開発

忘れられている木曽義仲のこころ
 新春からNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放映が始まりました。佐久市に大変関係が深い木曽義仲や、平賀義信がこれから登場しますので活躍が期待されます。 
 ところで木曾義仲というと、人々の口からは「逆賊・無知・乱暴者」というイメージで語られることが多いようです。悪評を耳にするたびに義仲の側近、家之子郎党として祖先を送り出した佐久の人たちは大変肩身が狭い思いがしてはいないでしょうか?
 でも本当の木曽義仲は人情深い方でした。当時政治の乱れや異常気象により国内は飢饉と飢餓で混乱の極みにあり、地方は疲弊する一方でした。そのような中、木曽義仲は佐久から国を変えようと行動を起こした魅力的な武将でした。
 その事実は古文書の中に残されています。それは1183年(寿永2)5月、平家との倶利伽羅峠合戦の前に、戦場がある富山県小矢部市の埴生護国八幡宮に彼が残した祈願書が何より真実を伝えています。
 義仲は神前に「今戦いを起こすのは、一身一家のためではなく、国民を救うため」と誓われています。何より義仲と佐久の祖先たちの崇高な使命感を物語ってはいないでしょうか。

 義仲が願ったこと
 県歌「信濃の国」に木曽義仲が朝日将軍と歌われているいるように、ふつう知られている義仲は征夷大将軍を願い目指し、寿永2年(1183)8月に朝日将軍の称号を賜るとされています。
 しかし義仲の願いは神前に誓われた願文のとおり、平安時代末の地方では都からの手酷い圧政があり、人々は自ら切り開いた土地と家族を守るために「一所懸命」「自力救済」の言葉が残されているとおり、生きることが実に大変な時代でした。義仲の願いは人々を救いたいの一心にあったでしょう。
 義仲は幸い寿永2年(1186)7月28日に入京が叶います。そのときまず最初に願い出たことは、征夷大将軍の就任でなく、8月10日の国内勅使牧長官 左馬頭(さまのかみ)へ任官でした。
 その後の木曽義仲と佐久の祖先たちの動向がうかがえるものに、昭和29年(1954)6月に五郎兵衛用水を初めて学会誌に発表した学習院大学大石慎三郎名誉教授が初代館長を務めた学習院大学資料館、その特別研究員木村真美子さんが『学習院大学資料館紀要第10号』に、公家の西園寺家が平安時代から室町時代まで、代々500年間にわたり書き伝えた貴重古文書からの読み解いた貴重な記録があります。
 それは、院(=上皇、譲位後の天皇の呼称)の厩を管理統括した役所(御厩(みまや))の長官(御厩司(みまやつかさ))と、実務担当者である案主(あんじゅ)(安主)の歴代名簿『御厩司次第』を手掛かりに発表された『中世の院御厩司について』です。
 明らかにされたことは、木曽義仲が何より願ったのは佐久の大地、御牧の支配権、いま風に言えば草の根からの地方自治の実現、それは御厩司への就任、副官は八嶋氏でした。
 このことを公家吉田経房は日記『吉記』に義仲の言葉として「院ノ御厩別当に成テ、思ウサマニ・・・」として残しています。

木曽義仲の活躍した大地と五郎兵衛の用水開発

 五郎兵衛は生涯をかけて佐久平で三つの用水開発をしました。その五郎兵衛用水・三河田用水・常木用水の灌漑する範囲は木曽義仲と彼を取り巻く家臣たちの根拠地でした。

 三河田用水・常木用水は、根々井氏、落合氏ゆかりの地でしたし、五郎兵衛用水は望月氏、矢嶋氏、春日氏、布施氏の活躍した場所でした。
 そしてなによりは水利権、所有権、地役権が複雑に込み入る中、五郎兵衛が小諸藩主から開発許可状の交付が得られ、水利権、用水用地、新田開発地への補償が何れも無償の中で施工できたのも、義仲側近末裔の平尾氏による大きな力添えがあってのことでした。
                                                                 (根澤茂 記)
 

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