第2回 渋沢栄一を守り育てた佐久と古文書の世界
更新日:2021年3月7日
館長の豆知識(2) 渋沢栄一を守り育てた佐久と古文書の世界
渋沢栄一は生涯に約500の企業の育成に関わると共に、約600の社会公共事業の発展や民間外交の推進に尽力しています。その功績から肖像画が新一万円紙幣に、また2021年2月から放映されるNHK大河ドラマ『青天を衝け』は、彼が主人公です。あまり知られていませんがドラマタイトル『青天を衝け』は、佐久市肬水地区の断崖絶壁にある渋沢栄一の『内山峡之詩』碑の一節から引用がされています。
渋沢栄一の『内山峡之詩』碑、手前は副碑『渋沢青淵先生之巌碑』伊藤松宇筆(遠景)
渋沢栄一の『内山峡之詩』碑(全景)
渋沢栄一の詩碑(拡大)撮影何れも五郎兵衛記念館(S.N)
この『内山峡之詩』が収録されている『巡信紀詩』という漢詩集は、渋沢栄一(青淵)と従兄で後に官営富岡製糸場初代場長となる尾高惇忠(藍香)が、家業の藍玉を信州へ売り込みの途上で著作したものです。このとき二人の年齢はというと、栄一は19歳、尾高27歳でした。
現地碑文に『㐮山蜿蜒如波浪。西接信山相送迎。奇険就中内山峡。天然崔嵬如・・』と、20歳にも満たない農家の一青年、渋沢栄一がセールス活動に従事しながら詩作してるところが、当時の日本と佐久の文化でした。
残念なことに今の人には到底理解できないので、彼らの『巡信紀詩』について、山本七平著、PHP研究所出版の「渋沢栄一の思想と行動『近代の創造』」そのP133に吉岡重三氏の『新藍香翁』から引用し、原文がどのような調子であるか紹介してますので使わせていただきます。
「原文」
我と青淵、ともに刀陰の耕夫なり。而して藍をひさぐもまた箕裘の業のみ。ただ文を論じ詩を賦すを楽しみとするは二人の私なり。今茲十月業を以て信に入る。一簑単刀、数巻の書を携え、初六日を以て行を啓く。
家厳戒めて曰く。「汝行装恐らくは文人に半戦。諺に曰く『十月中旬優人と語るべからず』と」。我曰く「諾々」。拝して発す。直ちに青淵氏に至りて辞す。発するに臨みて舅氏我と青淵を戒むるもまた家厳の言の如し。(以下略)
(口語訳)
私と青淵とは、ともに利根川南岸の農夫である。そして藍を売り歩くのも家業である。漢籍について論じ漢詩を作ること、これだけが二人の唯一の個人的な楽しみなのである。さて今年10月、この家業のため信州に行くことになった。
一つの簑(みの)と単刀、それに数冊の書物を携え、10月6日に出発した。出発に際して家の厳父が次のように戒めて言った。
「お前の旅装はまるで文人といった格好だ。『10月中旬(日が短くしかも農繁期)には閑人と口をきくな』 という諺がある(くれぐれも詩文に心を奪われて家業を怠ってはならない)」と「はいわかりました」 と答えて出発した。
まっすぐに青淵君の家に行き、その家人に別れを告げた。すると出発のときおじさん(市郎右衛門)が私と青淵君を戒めたが、その言葉がわが家の厳父と同じであった。
(以下略)
この詩が書かれたのは安政5年(1858)旧暦10月、新暦でいえば11月の初めです。多分信州は紅葉のまっさかりだったでしょう。当時も今も東信濃には歓楽街が少なくない中、惑わされず非常に駆引きの難しい紺屋へ藍のセールスをしつつ、詩文の世界に没入していたという事実が大切と、山本七平は記し残しています。
山本七平もですが、現代の佐久市民も渋沢栄一と佐久、そして『内山峡之詩』碑について発信しているので引用させていただきました。
佐久市観光協会のホームページ「内山峡」碑とNHK大河ドラマ「青天を衝け」のお知らせ(外部サイト)
佐久の生んだ大漢学者「木内芳軒」と渋沢兄弟
佐久と渋沢栄一の関係は深く『内山峡之詩』も、渋沢栄一と尾高惇忠が信州への旅路で、漢詩と漢籍を伝授されるのを楽しみにしていた、信州佐久岸野下県村にいた早逝の大学者木内芳軒との深い交友のなせるところでしょうか。
ところで当館には、木内芳軒の愛弟子で、佐久の先人に選ばれた依田稼堂と、渋沢栄一関係者との貴重な記録が遺族から寄託され「五郎兵衛記念館古文書目録第八集」に「中原依田昴家古文書」「中原依田房一家古文書」として残されています。目録の所々に、教育県信州の礎が伺えるのも古文書の世界の素晴らしさです。
依田七太郎東京遊学につき紹介状〔伴野村木内源太→渋沢栄一〕五郎兵衛新田古文書目録第八集第一部中原依田昴家古文書目録B426年月日不明9月13日
渋沢栄一宛の木内芳軒兄から依田稼堂東京遊学依頼状に残された7言絶句とも 五郎兵衛新田古文書目録第8集B426 , 年不明
渋沢栄一の命を救った佐久
渋沢栄一の回顧譚『雨夜譚会談筆記』や、長女穂積歌子の随筆『はゝその葉』に詳しく記されていますが、若き日の渋沢栄一は、真冬に佐久と関東をつなぐ脇往還の香坂峠で道に迷い、疲労凍死寸前であったのを心優しい香坂集落の老夫婦の手厚い介護により一命を取り留めてます。
それというのは渋沢家では一年に2~5回、藍玉の商談と馴染みの文人墨客との清談を楽しみに、信州佐久を訪れるのを通例としていました。
今は上信国境も30分も要せず越えてしまいますが、当時は大変困難なことでした。というのも、中山道が天下の公道のため、貨物は宿々で庭銭を払い、常備の伝馬で継ぎ送りするのが原則でした。
そのため費用と時間を節約するため、渋沢家はじめ、民間の物流は脇道利用が多く「信州より馬数十匹、重荷負い、馬士は米一斗余り背負い参り候」(文久元年 神津茂夫氏文書)のとおり、佐久から大量の米が送り出され「米の道」と呼ばれた佐久市東部の当時志賀村からの志賀峠越え、北関東で生産された麻を近江商人が大量に買い付け、峠越えして来たため「麻の道」とも称された、下仁田から香坂峠を越えた佐久の入り口である香坂集落、そして岩村田へ至る脇往還等が、盛んに利用がされていました。
厳冬期の上信国境越えの過酷さ
これらの峠の頂には現在は内山牧場、神津牧場が経営されているように、峩々たる巌の妙義連山に接しながら、香坂峠頂上付近は、なだらかで平坦な地形のため、冬期積雪期間になると旅人は目標を誤り道を迷いやすく、また「風吹峠」の別名もあるとおり常に暴風雪が吹き荒れ、足跡も危険な窪地も全て包み隠し、そのため旅人の遭難が多発する危険な交通の難所でした。
栄一が後年述懐していますが、彼は信州への道を急ぐあまり、近道の香坂峠で暴風雪に遭遇し、あわや道に迷い遭難するところを、地元香坂集落の人々の心細やかな気遣と、接待で一命を取り留めています。
市川五郎兵衛の用水開発精神が自己献身であった様に、幕末黎明期の佐久の祖先たちが不幸な旅人に最大限のいたわりをしているのは、やはり佐久の美風でしょうか。
「内山峡之詩」については、公益財団法人渋沢栄一記念財団のデジタル版「渋沢栄一伝記資料」第57巻P866-868に、また佐久市内、香坂峠での雪中での苦心譚については、第1巻207ページから208ページに記述があります。詳しくは下記リンクをご参照ください。 佐久市五郎兵衛記念館館長 根澤茂(ねざわしげる)
『巡信紀詩』「渋沢栄一伝記資料第57巻」P866-868公益財団法人渋沢栄一記念財団(外部サイト)
『雨夜譚会談筆記』 「渋沢栄一伝記資料第1巻」P207-208 公益財団法人渋沢栄一記念財団(外部サイト)
志賀越え、香坂峠頂上付近の内山牧場オートキャンプ場から見た荒船山遠景 撮影五郎兵衛記念館(S.N)
道の迷いやすい香坂峠頂上付近は現在は牧場 撮影五郎兵衛記念館(S.N)
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