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第4回 世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち

更新日:2022年3月3日

館長の豆知識(4) 世界遺産『官営富岡製糸場」と渋沢栄一と市川五郎兵衛の子供たち

 今回は渋沢栄一市川五郎兵衛の子供たちのお話です。
 幕末から活躍した渋沢栄一と戦国末期の市川五郎兵衛眞親(1571~1665)の子供たちが協働などあり得ないと思うは当然です。「世界かんがい施設遺産」に登録されている世界各国の灌漑用水の中で、五郎兵衛用水のみが唯一「五郎兵衛の用水システム」と施設名でなく個人名で登録がされています。その灌漑用水開発者の末裔は五郎兵衛の名前と自己献身の心の継承に努めました。今回は、用水開発者の五郎兵衛から6代目の五郎兵衛眞信(1853没)についてお話しします。

峠を越えて

 渋沢栄一五郎兵衛の子供たちとの馴れ初めです。栄一たちは深谷から中山道を一路信州を目指しますが途中長野自動車道が藤岡から分岐して佐久へ向かうように、栄一たちも中山道本荘宿を出てまもなく埼玉県最北の霊峰御嶽山を祀る金鑽神社の前を過ぎたあたりから左に折れ、藤岡道とか小幡道ともいわれる脇道を藤岡・富岡・下仁田を経て南牧谷へ入り市川五郎兵衛家の羽沢館に逗留し、そこから一気に星尾集落・戸沢峠(星尾峠)・信州佐久という道筋を選ぶこともありました。
 それは漢詩・漢籍に深く心を寄せる栄一と尾高にとって、羽沢館の市川一族には書家、漢詩人の市川米庵・万斎がいたり、また、五郎兵衛眞信の五男健吾は文政12年(1829)生れ、尾高惇忠は文政13年(1830)、健吾の弟、万平は天保10年(1839)生れ、渋沢栄一は天保11年(1840)と、市川兄弟と渋沢・尾高は年恰好も同じこともあり生涯変わらない交際を続けることになります。

地図
出典:国土地理院ウェブサイト(htts:www.gsi.go.jp/tiz-kutyu.htm)

渋沢栄一の幼なじみの市川兄弟のその後

 明治の開化期を迎えると埼玉県の利根川南岸に生まれ育った渋沢・尾高義兄弟と上信国境の西群馬の奥深い渓谷の城館で生を受けた市川兄弟は理想の郷土づくりに邁進します。
 五郎兵衛の五男健吾は、嘉永3年(1850)藤岡市の折茂家に養子に迎え入れられ、嘉永5年(1852)23歳のとき名主見習い、明治11年(1878)には緑野・多胡・南甘楽の初代郡長(3郡兼務で94町村を管轄)に就任し、そして明治19年(1886)57歳で退任するまでの35年間、地方行政発展のためにその半生を捧げています。幕政から明治の困難な時代、自然災害だけでも嘉永6年(1853)の大旱魃、安政6年(1859)8月関東大風雨洪水から6年間にわたる大風雨の度重なる襲来、また水戸天狗党、小栗上野介事件、秩父事件など困難なことが実に多かった時代でした。
 今に残る健吾の功績として、折茂家の養蚕・蚕種製造を発展させ、その技術が世界文化遺産官営富岡製糸場の「高山社」の創業者高山長五郎を陰ながら支え発展させたことでした。

 健吾の弟、万平は渋沢家が家業「藍染」と語呂が似ているため大変熱心に信仰し渋沢一族からの絵馬が残されている「藤岡下川上愛染明王堂」がある中山道熊谷宿の本陣、竹井家を継ぎ慶応3年(1865)14代当主竹井澹如と名乗ります。澹如は大隈重信、板垣退助、陸奥宗光らとの親交を生かし、明治3年(1870)埼玉と群馬両県域を一つにし県名に中間地点を採用し「熊谷県」を発足させます。その後事情により分裂し現在のような二つの県となってしまっています。
 澹如の大きな功績に日本最大の河川は「信濃川」ですが、河川の幅に限って言えば「荒川」が国内最大、ということは国内きっての暴れ川でした。そのため、江戸時代末だけでも安政6年(1859)から6年間続いた荒川の氾濫で熊谷地方の被害は甚大なものがありました。明治2年(1869)、竹井は私財を投じ熊谷を守るために荒川に堰堤を築きます。彼は洪水から守られるようになった河川敷内農地に大量の桑の木を植え数十町歩に及ぶ広大な桑園を開拓し、地域の養蚕業の発展を図り、官営富岡製糸場の安定した経営を側面から支援することになります。
 明治3年(1870)、渋沢栄一は洋式の大規模な製糸機械を導入した官営の模範工場の建設を計画します。広大な工場用地を至急確保するために苦心する栄一に、健吾、澹如は江戸時代の初め南牧発展のため地場産業として当時国内最大規模の砥石鉱山を立ち上げた幕府代官中野七蔵が砥山代官所に予定していましたが、中野代官転任により未着手となり広大な空閑地となっていたその用地に官営富岡製糸場を建設を勧め、用地問題で計画が頓挫していた官営富岡製糸場の竣工が成り尾高惇忠が初代場長となります。
 しかし工場は完成しましたが、赤ワインを飲むフランス人の姿から「富岡の工女になると血を飲まれる」の噂が広まり、工女を募集しても応募がありませんでした。そのため尾高惇忠は自分の娘「尾高勇」を、健吾・万平も妹を、そして良く知られた話として、旧松代藩からは家老の娘『富岡日誌』を残した横田英が工女の応募を促するため故郷の期待を背に最先端の官営の工場で製糸技術の取得し日本の近代化を支えました。
 

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