第8回 がんばろう佐久
更新日:2021年3月7日
館長の豆知識(8) がんばろう佐久
吉澤好謙の語り伝えたこと
市川五郎兵衛(1571~1665)は、40歳を過ぎてから佐久平での用水開発を志しました。元和年間(1610年代)に常木用水・三河田用水を竣工させ、寛永3年(1626)からは五郎兵衛用水の開発に着手します。しかし難工事に苦心し、漸く完成したのは寛永8年(1631)彼は60歳を過ぎていました。
吉沢好謙『四鄰譚藪』元文元年(1725) 五郎兵衛記念館寄託丸山良一家文書「中山道塩名田宿本陣・問屋丸山家古文書目録」 E339
今も昔も老境を前にすれば穏やかな生活を思うところ、五郎兵衛が困難が多い用水開発をどうして思い立ったか?その理由を推し量る佐久の歴史を書き残した偉人に、吉澤好謙(1710~1777)がいます。
吉沢鶏山とは
好謙は雅号を「鶏山」、楜沢竜吉先生の『吉澤鶏山先生略伝』に、或る日、好謙は蓼科山で鶏に似た奇妙な鳥、雷鳥に出会ったそうです。感激した彼は自身が酉の刻生れのこともあり『鶏山』と号したということです。
その好謙が雷鳥に遭遇した蓼科山山頂の現在は巨石が累々とし、一本の木も生えていません。それは山火事により緑が失われたためで、大昔は這い松が茂る雷鳥の楽園だったようです。今も昔も自然破壊の恐ろしさです。
ところで、好謙は郷土史家、寺子屋師匠、俳諧宗匠としても巨匠でした。特に優れた足跡に元文元年(1725)に出した郷土史書『四隣譚藪』、それに続く『信陽雑志』『信濃地名考』は今に至っても、信州の歴史・地誌に本格的に目を向けて取り組んだ優れた著作として評価の高いものです。
歴史家としての鶏山
この『四隣譚藪』の中で鶏山は、信濃の国府松本を凌ぐほど栄えていた岩村田の街が、中世の度重なる戦乱により全くの灰燼に帰してしまったこと、また慶長15年(1725)に発生した「佐久郡一郡逃散」という、戦国大名の暴政により人々が佐久平で住むことを諦めた。という痛恨の悲劇をも書き残しています。
しかし、好謙は辛い暗い話だけではなく『四隣譚藪』の巻頭に、平和を取り戻した岩村田の豊かさ、お正月の目出度い光景を活写しています。
市川五郎兵衛が見た戦乱で荒廃した佐久平と、人々が力を合わせて地域を再生し、幸せの日を取り戻した姿、用水開発が重なりはしないでしょうか。
困難に挑んだ佐久平の人々
近世佐久平での新田開発について、土屋雅憲氏は『近世初期信州佐久郡新田開発』で、五郎兵衛の用水開発の成功に続き、佐久平では51ヵ所の新田開発がされたと克明な調査研究を発表しています。
今、社会は大変な困難に直面しています。そんな時ですから苦難に立ち向かっていった佐久平の祖先たちの足跡を紙上で探訪して行きます。
相浜区の金龍寺境内先「倉瀬用水」千曲川懸崖水路全景
苦闘を重ねた倉瀬用水
渋沢栄一が下県の木内芳軒宅を訪れるとよく散策した近くの千曲川河畔、その風光明媚な断崖絶壁を延々と下流の駒寄地区に向け、江戸時代に農業用水路が幾度か洪水からの破壊と、再建を繰り返していました。
寛保2年「(1742)戌の満水で知られる千曲川の大洪水、このとき駒寄区の千曲川沿いの優良農地が流失しました。その場所は上流に位置する下県村分の倉瀬地籍であったこともあり、下県村、相浜村、御馬寄村、駒寄村の人々は力を合わせ、東立科から沓沢区を流下する宮川の水を金龍寺の許可を願い、境内の千曲川沿い断崖絶壁の中を、明和8年(1771)用水隧道を苦心して開削しました。(岸野村史・木内雄二氏所蔵文書)
倉瀬用水隧道から対岸の真田昌幸生誕伝説のある琵琶島城跡を望む
折角完成させた用水施設も、文化12年(1815)8月と、翌年の中部・近畿大洪水により甚大な被害を受けてしまいました。
その時人々は天災と諦めるではなく、文化6年(1821)再度力を合わせ、断崖絶壁の中に158mの懸崖水路を再度掘削しました。(史料館「信濃国佐久郡御馬寄村町田家文書目録」1111)
断崖絶壁の中腹に施工された倉瀬用水懸崖水路跡
しかし、再建した倉瀬用水も嘉永5年(1852)9月の近畿・関東大洪水により崩落、倉瀬地籍の農地は流失し千曲川の本流となるなど回復が不可能ともいえる甚大な被害を受けてしまいました。
現在、県道「浅科・下仁田線」の「琵琶島橋」上流に広がる荒涼とした石ころだらけの河原がかっての美田地帯の変わり果てた現況です。そして現地には当時の人々が苦心して開発した懸崖水路の跡が残るのみです。
洪水で破壊されたされたかっての倉瀬用水隧道
ところで、千曲川の断崖絶壁に江戸時代に建設された用水施設はこの倉瀬隧道に留まらず、その下流の御馬寄区の中津橋下流から浅科浄化センターがある十二河原まで「十二河原用水」の隧道が、その下流の桑山地区から小諸市宮沢区へと、その先、大杭、久保へと開発がされていました。
五郎兵衛記念館は古文書の宝庫
五郎兵衛記念館には文字の記録、彩色による絵図等、実に様々な記録が残されています。
次に掲げる古絵図は、倉瀬用水が灌漑する駒寄区の千曲河原に開けた農耕地の洪水被害と復旧の記録です。(五郎兵衛記念館寄託「御馬寄村古文書目録」134 年月日不明)
水害前には黄色の部分、水田が広がっていました。
洪水で水田、水路が流失し懸崖水路の新設が求められました。
幕末の大洪水で耕作可能な農地が失せました。
佐久の人々が工事の模範とした五郎兵衛用水隧道の今
用水取入れ口付近の断崖に堀られた旧トンネル
鹿曲川懸崖に建設の旧用水隧道跡の漏れ水冬季光景
透水性の高い角礫凝灰岩のため漏水に悩まされました。
片倉隧道内部(長野県史跡指定)
用水は岩尾根があるとオープンカットで突き進みます。本文・写真佐久市五郎兵衛記念館館長根澤茂(ねざわしげる)。
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社会教育部 文化振興課
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