第16回 渋沢栄一と佐久
更新日:2021年6月6日
水害の郷土を復興した偉人と渋沢栄一
私財を投じ地域を再生した市川五郎兵衛は知られています。しかし市内には貴重な貯えを郷土発展のため費やした偉人が幾人もおられます。
今回は井出安人著「ありがたきかな此の水」北佐久土地改良事業研究会、昭和50年(1975)6月10日に残されている河川の氾濫から郷土を守った偉人田中徳重の記録です。
田中徳重翁の碑
ドラマ「青天を就け」で内山疣水区は広く世に知れ渡りました。ところで隣に接する平賀源内の心のふるさと平賀、その内山からの川岸に残る「田中翁碑」は、郷土の大先輩と渋沢栄一との深い交友を記憶するものとして貴重なものです。
資料写真 田中翁之碑 井出安人著「ありがたきかな此の水」昭和50年6月10日 北佐久土地改良事業研究会
令和元年東日本台風で、内山・中込地区は上信国境内山峡からの河川により甚大な洪水被害を被りました。
科学者にして随筆家寺田虎彦の格言に『天災は忘れたころやって来る』のとおり、荒船山からの水は、これまで幾たびも下流で氾濫を起こしています。
昭和2年(1927)この水害から地域を再生させた偉人を称え、渋沢栄一が書を寄せて建てられた石碑が「田中翁碑」です。
石碑の原文は
石碑の一番最上部に「田中翁碑」と渋沢栄一の揮毫を刻み、続いて田中翁を称え、長野県教育界に偉大な足跡を残している佐藤寅太郎が次のとおり記しています。
田中徳重翁ハ嘉永二年南佐久郡平賀村徳左衛門氏の長子ニ生ル年二十二自ラ分家シ独立自営ノ途ニ就キタリ翁資性敏活稼穡ノ道ニ其天才ヲ発揮シ確固タル信念勤倹力行ノ徳ハ遂ニ克ク郡内屈指ノ富ヲ造レリ翁内山川ノ流域洪水氾濫シ荒蕪ノ地多キヲ慨シ私財ヲ投シ或ハ堤防ヲ修築シ或ハ河身ヲ改修シ為メニ良田ヲ得ルコト一万七千余坪ニ達ス以テ其着眼膽気ノ超凡ナルヲ知ルヘシ翁又志ヲ公共ニ存シ奇特ノ行為多ク加フルニ篤実慇懃ヲ極ムルヲ以テ近郷挙テ其徳ヲ称揚ス翁今ヤ年齢八十猶矍鑠トシテ福寿円満ナリ嗚呼偉ナル哉今茲ニ有志相謀リ寿碑ヲ建テ以テ翁ノ功績ヲ永遠ニ彰ハサントス余乃チ之ヲ記ス
昭和二年五月
子爵 渋沢栄一 題額
長州 佐藤寅太郎 撰並書
沼田 刻
田中徳重翁の功績を称えた長州佐藤寅太郎撰文の口語訳はこちら(PDF:144KB)
碑陰に名を遺した人々
碑陰には発起人、世話人併せて14名の名前が刻まれています。渋沢栄一の時代に紺屋を営んでいた近在のお宅に渋沢市郎衛門からの藍売買の記録とは別に、若き渋沢栄一との深い交友の口碑が残されていることから、碑陰に刻まれた方々には渋沢の顔見知りの方も多いことでしょう。
渋沢栄一の生死を分けた信州佐久香坂峠のいま
この連載「館長の豆知識」第2回で、公益財団法人渋沢栄一記念財団の公開している記録資料、栄一自身からの聞き書きや、娘の穂積歌子の随筆をもとに渋沢市郎衛門、尾高惇忠、渋沢栄一の積雪期信州行が、実に大変で困難と危険とが隣り合わせだったとして紹介してきました。
しかし佐久が危険なところかというと、高山の冬山は危険ですが、一転、初夏の佐久はまた違う別世界です。
渋沢栄一が夕闇と積雪の中、地元住民に命を救われた香坂峠の初夏は一転爽やかな別世界です。でも、風吹き峠のとおり暴風が冬期間吹き荒れるため木々か直立していません。撮影五郎兵衛記念館
香坂峠頂上付近から群馬県側を見下ろすと山つつじの群落の中、急峻な登りが続いています。
香坂峠頂上付近から佐久平が一望です。写真中央に木内芳軒の下県村、ここから香坂集落まで2里(8キロ)雪中遭難の栄一の苦心が偲ばれます。
渋沢栄一が積雪期の上信国境香坂峠で道に迷い九死に一生を得た苦心譚はこちら(外部サイト)
文責 佐久市五郎兵衛記念館 根澤茂
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