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第24回 近代水道と五郎兵衛用水

更新日:2022年7月17日

近代水道を住民自らの手で県内いち早く

近代水道の歴史
「近代水道」とは、川などから取り入れた水をろ過し、圧力を加えて給水する水道施設のことで、私たちが日常生活で使っている水道の仕組みと同じものをいいます。
 この近代水道が日本で初めて供用されたのは、国内で伝染病が蔓延していた明治20年(1887)開港貿易の安全を図るため横浜が最初でした。この命と暮らしを守る水道事業の尊さから、毎年6月1日から7日は全国水道週間です。
 ところで横浜の近代水道開設からまもなくのことです。明治33年(1900)五郎兵衛用水を活用し、市内下原区で近代水道が起工されていました。 それは長野県下の上水道供用開始が、県都長野市でさえ大正4年(1915)のこと、佐久平にあっては漸く昭和30年代ですから、実に画期的な企てでした。
 

日本の上水道の先駆けは
 日本の上水道施設の先駆けは16世紀の末、小田原北条氏により開発と供用が開始された、小田原早川上水といわれています。現代から見れば浄水施設や、各戸への給水設備が整っていなかったという点は差し置き、当時としては世界で最も先進的な上水道施設とされています。
 それからまもない寛永8年(1631)市川五郎兵衛は高台にあって水に乏しい、当時は矢嶋原と呼ばれた荒野に、かんがい用水と生活用水を兼ねる五郎兵衛用水を完成させています。
 古い時代村人は五郎兵衛用水の水を「御神水」として崇めて来ました。それというのも五郎兵衛新田村と呼ばれたこの村は、周囲を一級河川の千曲川、布施川、柳沢川、石附川に囲まれていながら、高台にあるため深井戸を掘っても飲料水に恵まれず、水稲を育む五郎兵衛用水は人々の命の綱、飲料水そのものでした。  
 
 

水の安全がいつも
 でも困ったことにこの用水、夏の夕立では泥水と化し、厳冬期は分厚い氷の下、水汲みも雨が降れば泥道、冬は吹雪、そのうえ源流から御他領9か村、と言われた行政を異にする村々を延々と流れ来るため、途中での水質汚染がいつも心配されていました。
 明治の開化期を迎えても佐久では伝染病流行が凄まじく『望月町誌』によれば、明治11年(1878)2月に天然痘、翌明治12年からコレラが発生し、明治23年(1890)、明治25年(1892)、明治29年(1896)とコレラは大流行、そのうえ赤痢も明治17年(1884)に流行始まり、明治29年(1896)から3か年連続の大流行、そのため当時の村々では死者多数の発生が記録されています。
 

水の恵みに願いを託して
 五郎兵衛記念館古文書から江戸時代の祖先の暮らしを見れば、疾病がいつの時代も猛威を振るっています。当時の名主の書き留めた『御用留』という公用記録に、延宝8年(1680)11月「疱瘡・麻疹・水痘遠慮のこと」と題する法令、享保元年(1716)8月にも法令で感染防止や予防医学の観点から通達が残されています。しかし何れも感染防止の対策で、庶民は神仏にすがるほかありませんでした。 
 次に掲げた写真は当時の人々の水と暮らしの安全を願う切実な記録です。

五郎兵衛の人々が幸せにの思いを継ぐ人々
 令和元年(2020)市内下原から記念館に寄託され『櫻井和人家文書』として整理保管がされた古文書は、明治33年(1900)下原集落の人々が270年近く、飲料水としていた五郎兵衛用水からの水を画期的に改善していた。という貴重な記録でした。
 そこには下原集落の人々の安全な暮らしへの切実な願いと、その思いを達成するため、命懸けで長大な地底水道に挑んだ不撓不屈の村びとの生きた歴史が残されていました。
 その始まりは山本栄吉さんと、子息栄重郎さん栄八郎さんの
『明治維新以来、文化も衛生思想も進んでいながら、下原集落の人々は村はずれの五郎兵衛用水の水汲み場まで、雨の日も雪も日も大変長い距離を労している。でもその水は上流9ヵ村で汚染の心配があり、飲料水として用いるには不衛生極まれないものだ。自分たち親子が身命をかけて、近代水道を完成させるので村人の力を借りたい』という心からの願いでした。
 この思いを現実のものとするため、当時の村人たちは明治33年(1900)3月『水道工事誓約書』を集約し、近代水道完成を誓っています。
 

近代水道完成のためにしたこと
 そして人々は膨大な工事資金確保のため『水道工事基金有志帳』として、家々がそれぞれ最大限負担できる金額を申し出ています。でも原資はまだ不足していました。
 その不足資金を補うため直接就労の記録、それは地場産業の瓦製造業で使う原材料土の採掘と、運搬による就労金を記帳した『明治33年水道工事基金瓦土担い帳』や、直請けによる水田基盤整備事業の益金『明治34年4月水道工事基本金出途ニ付田普請人足帳』を残しています。
 現在水道事業は公設公営ですが、このころは住民の代表が直接手続きしたのでしょう「明治36年水道新設及国道敷使用許可書」「明治36年横井水道新設許可及指令書」も残されていました。 
 

崇高な使命感に基づく工事
 五郎兵衛用水を水源に着水池を設け砂と炭とでろ過し、そこから用水の水圧を利用して地底深く浄水を圧送するこの近代水道工事は明治33年(1900)に起工され、明治35年(1902)に漸く難工事は竣工しています。 
 この水道工事は地表からの掘削工事ではなく、地下最大9mに隧渠と呼ばれた導水トンネル、高さ2尺5寸幅2尺といいますから、高さ75cm幅は60cmという、大人が屈んで辛うじて進めるような狭小な地下トンネルを下原集落の宅内深く人力施工で掘り進め、水路網を張り巡らせたことでした。
 工事は山本親子が請け負い、身命を懸けて施工したこの近代水道施設は、明治35年(1902)の供用開始後、地域に砂と炭ろ過による安全な飲料水を佐久水道企業団の上水道施設に譲るまで、なんと104年間安定供給してきていたことでした。
 ところで古文書の中の人々の不思議さです。農民の山本さんが隧道工事中、支障する岩を爆砕したり正確な測量と施工をしていることです。今となってはどこでこの技術を取得したかは明らかではありません。また隧道が極めて狭いため、身の小さい子息二人が親を思い地中で大いに頑張っていたことです。今なら児童虐待ですが明治の時代精神でしょうか。

地域の感謝の記録
 地域の生命と財産を守るため現代の大断面のトンネル工法と違い、落盤すれば命の保障がない。という極めて危険な作業を暗黒の地中深く、3ヵ年に渡り地域のため施工し、無事完成させた山本親子の偉業を讃え、地域の人々は大正15年(1926)巨石を用いて記念碑を建立しています。そして工事竣工25年後の昭和2年(1927)5月25日、あらためて村人たちは山本親子に謝恩のための記念祝賀会を盛大に開催しています。 (根澤茂)


  

KKKKKK
下原水道の大恩人を称えた「水道紀功碑」の碑文の写し

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