第26回 浅間山大噴火記録絵図を残した先人
更新日:2023年2月19日
日本は災害大国、宿命の天災を忘れないため
信濃浅間嶽大焼け絵図 弘化4年(1847)池田良臣画(1450×670)五郎兵衛記念館寄託中山道塩名田宿本陣問屋丸山家古文書目録G41
大規模災害からの復興の記録を後世に
物理学者寺田寅彦の言葉「災害は忘れたころにやって来る」が知られています。彼は生前予言めいた言葉も残しています。それは「文明が進歩すればするほど、災害は防げるのではなく、その度合いが増す」です。『天災と国防』1934年(岩波文庫)
寺田寅彦が危惧したように、近年では東日本大震災の大津波や、日本列島各地で局地的豪雨被害の多発など、大規模災害が頻繁に発生しています。私たちはこのような大規模災害が過去に発生していないように捉えがちです。しかし、長い歴史の中で、祖先たちはたびたび遭遇していました。
過去の大規模災害の記録に、当館寄託丸山憲一家古文書の『天明三年浅間山噴火記録』があります。この記録は、1783年(天明3年)に経験した1000年に一度といわれる浅間山巨大噴火と、地域の甚大な被害の状況、そして災害による困難に負けない、当時の人々の復興への営みが克明に記されています。
当時の丸山家当主良忠は、俳号を「時々菴柯則」といい、俳人ならではの観察眼、表現力、独創的識見を活かして、極めて詳細に記録しました。彼は、近世信濃地誌の名著『千曲の真砂』の著者瀬下敬忠や、『信濃地名考』『信陽雑志』の著者吉沢鶏山と生涯俳諧を通じて深い親交があり、人々が助け合って地域を再建した見聞録と、国内では他に例のない詳細な絵図をそれぞれ3作品に仕上げ、貴重な歴史的資料として後世の私たちに残しています。
今年は天明3年浅間山大噴火から240年、また善光寺御開帳の年でもありました。あまり知られていませんが、善光寺御開帳は、天明3年浅間山大噴火に際し、上野国鎌原村(群馬県嬬恋村鎌原)へ被災者救済のためいち早く駆け付け、被災者3,000人に白米や銭貨を施した善光寺別当大勧進80世管主(住職)等順が、天明5年(1785年)善光寺本堂で執り行った浅間山大噴火三回忌ご回向がその始まりと言われています。
祖先たちは助け合いの心をいつも忘れず生きてきました。
丸山家古文書浅間山噴火絵図は3つの図の表現が同日を描いていても、それぞれ違います。残り2種はこちら⇒クリック(PDF:316KB)
丸山家の伝えた浅間山噴火絵図とは
天明3年信濃国浅間嶽大焼図(3)と(5) 画面右上人物と比較のとおり、その大きさが分かります。大画面に当時浅間山噴火が地域に与えた災害をこと細やかに描き尽くしています。
信濃浅間嶽大焼け絵図部分、弘化4年(1847)池田良臣画 噴火64年後に丸山家の求めに応じ画家は11歳当時の記憶をもとに絵図を完成。絵をめくるに従い、浅間山噴火が実に詳細に描きこまれています。
信濃国浅間嶽略図下書天明三年七月大焼絵図部分 アニメーションのように日々刻々と大噴火の動きがわかります。
信濃国浅間山大焼之図部分、日本アニメが現在世界で評判の通り江戸時代にその根源がありました。 撮影いずれも五郎兵衛記念館
まくり絵図とは
日本のアニメは世界の中心ですが、その発端を丸山家の絵図に見ることができます。(図版は原画を守るため五郎兵衛記念館の複製を撮影しています。)
浅間嶽大焼け絵図 池田良臣画の最初の部分です。池田氏は『信陽雑志』の原本を著者吉沢鶏山から託されていることから文学的素養に裏打ちされた巻頭言です。
説明文は『天明三ヨリ四歳迄紀録」から引用されており、旧暦5月26日から7月7日の浅間山の活動状況が記されています。
旧暦7月6日の大噴火について、中仙道塩名田宿で収集した浅間山麓の被害状況と、浅間山噴火の詳細な観察記録が記されています。
旧暦7月6日7日は、天明大噴火で徐々に激しさを増し、大爆発から火砕流/岩屑流の発生を記録しています。
丸山家浅間嶽大焼絵図の別図についてはこちらから⇒(PDF:349KB)
※上記説明画は、いずれも五郎兵衛記念館寄託の『中山道塩名田宿本陣問屋丸山家古文書目録』G41に収録の歴史的資料です。
『信濃国浅間嶽之記』天明3年(1783)『天明三ヨリ同四歳迄記録』天明6年(1786)丸山柯則著 五郎兵衛記念館寄託中山道本陣問屋丸山家古文書目録G41-(4)
本陣当主が記し残した浅間山大噴火と当時の凶作の克明な記録
口絵写真は中山道塩名田宿本陣・問屋職を務めていた丸山柯則が書き残した『天明三ヨリ四歳迄記録』(天明6年10月)と『信濃国浅間嶽之記』(天明3年5月)です。
柯則は瀬下敬忠、吉沢鶏山と並ぶ、当時信濃を代表する俳人でありながら塩名田宿本陣当主、そして佐久平130ヵ村で組織している中山道千曲川往還橋組合の橋元という重職にありました。立場上から民情把握のため、天明3年浅間山大噴火と、翌年から天明6年に至る大飢饉について、実に大量の情報を収集していました。
その彼を頼り、小諸藩役職からも様々な問い合わせがあったため、丸山柯則は後世のため災害の記録を残すこととし、本文中にできるだけ多く聞き知ったことを書き残すと記述があります。
そのことから『天明三ヨリ四歳迄記録』では、浅間山大噴火のあった天明3年(1783年)から天明6年まで4年間の天候、地域の民情、作物の作柄、米穀相場、そして佐久平を蹂躙した上信一揆の騒乱、また、天明の大飢饉下の庶民の暮らしぶりなどを克明に描写しています。
また『信濃国浅間嶽之記』では、有史以来の浅間山噴火の記録から書き起こし、天明3年浅間山大噴火の様子、本陣当主として周辺宿場から聞き集めた被害の実態等が克明に記録されています。『浅間山天明噴火資料集成(4)』では、丸山柯則の写本から採録のため原本からの誤記がみられるのは残念なことです。
佐久の先人のが後世に残した貴重な記録『浅間山』明治43年(1909)9月
浅間山に関する大著を刊行した佐久の先人たち
明治40年(1907)6月のことです。当時小諸尋常高等小学校校長だった佐藤寅太郎は、人々の関心が大変高いのにもかかわらず、地元浅間山の学術的研究がまったく進まず、そのうえ浅間山大噴火を記録している古文書が散逸していくのを惜しみ、浅間山研究会を小諸尋常高等小学校内に創設します。
そして研究会は、明治43年(1910)9月には教職員関係者の協力により、小諸尋常高等小学校編纂『浅間山』の刊行を成し遂げています。
歴史的名著『浅間山』刊行から80年後、その復刊が多くの人々から望まれ、ようやく昭和56年(1981)7月になり株式会社国書刊行会は、佐久郷土史界の重鎮上原邦一先生、東大地震研究所小諸科学研究施設で活躍されていた佐山守先生のご協力を得て、その復刊を果たしています。
(根澤茂)
※佐藤寅太郎とは、佐久の先人検討委員会編『佐久の先人』(平成26年発行・佐久市教育委員会)に「信州教育の充実に尽くした教育者」として顕彰されてます。
明治43年(1910)9月に佐藤寅太郎が中心となって刊行された『浅間山』に採用された様々な古文書 撮影五郎兵衛記念館
小諸尋常高等小学校編『浅間山』明治43年(1910)で、佐藤寅太郎が特別貴重だとして巻頭グラビア写真として掲載した丸山家収蔵絵図 撮影五郎兵衛記念館
『浅間山』に写真が残された、当時の浅間山研究会が明治40年(1907)から明治41年9月までと、1年2か月の長期間かけて完成させた浅間山の立体模型,1.5m×2.1m 撮影 五郎兵衛記念館
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