第30回 世界かんがい施設遺産「五郎兵衛用水」と地域の用水
更新日:2022年12月11日
時代を変えた家康からの朱印状
用水開発者市川五郎兵衛に徳川家康が与えた朱印状 『五郎兵衛記念館古文書目録第四集』市川家文書(抄録)No.4「開発許可状」 文禄2年(1593)12月16日 撮影五郎兵衛記念館
朱印状をもとに佐久平で用水開発
口絵写真は市川五郎兵衛が文禄2年(1593)、江戸城内で徳川家康より拝領した朱印状です。家康はこの時五郎兵衛に父祖との縁から強く仕官を勧めました。しかし五郎兵衛は戦乱で荒廃した郷土復興のため尽くすことを訴え、それが許された書状です。
この朱印状の文頭には家康の朱印、そして文末には「大久保十兵衛」の名が記されています。
大久保十兵衛は長安とも称し、徳川家康の天下を支えた総代官ともいわれています。彼は徳川幕府の礎として、財政基盤安定のため佐渡金山や石見銀山等の鉱山開発、産業振興として桐生や奈良での繊維産業の起業、そして五街道を始めとする交通運輸行政の確立など、様々な後世に残る経済対策を確立しています。
しかし晩年政争に巻き込まれ、汚名のみ後世に残しているのは残念なことです。
徳川家康「福徳」朱印近影 撮影五郎兵衛記念館
朱印状とは
朱印状とは、江戸時代までの将軍・大名・武将などが命令・承認など、特別の権利を許可した公文書に、朱色の印章を押して発行した書状を言います。
現在は捺印に誰でも朱肉を用います。しかし古代から江戸時代まで公文書に限り朱印の歴史から、一般的には黒印を押すのが習わしでした。朱印を使用できたのは、将軍や武将のみでした。
ちなみに五郎兵衛の朱印状の朱印には「福徳」と刻まれています。徳川家康が「福徳」と刻まれた朱印を用いていたのは、永徳12年(1569)から、この朱印状が作成された文禄2年(1593)までとされています。
家康の朱印の歴史からも貴重な朱印状です。
世界無形文化遺産「踊念仏」時宗寺院の歴史が残る用水開発の里
五郎兵衛が平尾城の平尾右近の協力を得て、最初に開発した四ケ用水(三河田堰) 写真出典:長野県土地改良事業団体連合会「農の営みをささえる❝信濃の疎水❞」
自然災害から復興への用水開発
今は平和で豊かな佐久平です。しかし、郷土の偉人吉澤鶏山が元文元年(1736)に著した『四隣譚藪』によると、慶長年間(1596~1614)の佐久平は、大規模な自然災害の中にあったようです。
その当時、人々を襲った干ばつ、冷夏、浅間山噴火による土石流災害、そして千曲川の度重なる大洪水について、桑田忠親監修の『日本史分類年表』(東京書籍・1984)によってもやはり異常気象の時代であったようです。
また中世末佐久平では、武田・織田・徳川・小田原北条氏・信濃の国人領主と、頻繁に支配者が変わり、吉沢鶏山の著述によると治安が乱れ群盗が跋扈し、人々が安心して暮らせる環境では到底なかったようです。
このような社会不安と、繰り返し発生する大規模な自然災害から、現代の繁栄を築いてきた先人たちの足跡として、市内三河田の歴史があります。
小諸藩から五郎兵衛へ、三河田用水・常木用水・五郎兵衛用水の開発成功への褒美状 寛永19年(1642) 五郎兵衛記念館古文書目録第4集市川家文書(抄録)No.8「新田御褒美領之事」撮影五郎兵衛記念館
五郎兵衛と四ケ用水(三河田堰)の記録
寛永19年(1642)3月のことです。小諸藩主は3人の家老の連名で、市川五郎兵衛が今までに例を見ない用水開発技術により、小諸藩領内で、三河田・常木・五郎兵衛用水の開発を、それも自己資金のみで成功させた労苦を労い、ご褒美に150石の土地を与えるという書状を発給しています。
写真左側の東京電力杉の木貯水池上方に三河田。右下が五郎兵衛の家が武田信玄から預かっていた瀬戸。出典「国土地理院」maps,gsi,go.jp/development/chiran.htm/
三河田堰(四ケ用水)が灌漑する三河田とは
三河田村の過去を確認できる資料として、明治14年(1881)三河田戸長(当時の村長)が長野県知事に報告した村の歴史があります。『長野県町村史』(長野県・1936)
それによると、中世までの古三河田村は、現在の三河田区から2.2キロメートル程東方、千曲川と滑津川と蛇場川の合流点に立地し、この三河川の水利で耕作する豊かな村だったことから、三河田村と称したようです。
瀬戸と同じ治水を成功させた技術者を古代から祀る西刀(せと)神社 写真出典竹林征三『風土に刻まれた災害の宿命』
佐久には古代に通ずる治水の歴史が
また三河田村に接して、市川五郎兵衛の祖父が武田信玄から宛がわれた瀬戸村があります。瀬戸には古代広大な湖水の水を堰切り、現在の美田を開いたという口碑が残されています。
同じような伝説が兵庫県豊岡市瀬戸にあります。それは市内瀬戸と同じように、水がせき止められていた場所を、458年雄略天皇の時代、西刀宿祢命(せとすくねのみこと)が水門を作り、流域を安住の地にしたことから祀られた西刀(せと)神社です。
館収蔵江戸時代の古布(麻布) 一遍たち遊行聖が着用した「阿弥衣」という着衣の布は、機で織ったではなく、筵のように繊維を編ん作られる編布(アンギン)と呼ばれる技法でした。撮影五郎兵衛記念館
むらの信仰の中心に時宗寺院が
古い三河田村の跡地に近く、蛇場川の西岸に立石という地名が残っています。そこには往古は時宗の寺院があり、相模の国藤沢金光寺末寺の西念寺だった。と三河田戸長は記しています。
中世当時、時宗僧侶の特別な役割に、戦場に従軍し、敵味方区別せず死者を弔い、遺体処理まで担当する。という他の宗派には見られない中立的な行動がありました。
この頃佐久平の若者は兵士として遠く東北や、九州の戦陣で没しています。故郷へは西洋の吟遊詩人と同じように時宗の僧侶がその最後を伝えていたのでしょう。。
前回ご紹介した京都長楽寺所蔵『遊行派末寺帳』の中で、信州で現在地未詳の寺の中に、西念寺(今井)とあります。佐久市の公図で現在の三河田区の東方に今井区の地籍があり、西念寺が佐久市今井であることは確かです。
西念寺は三河田の祖先たちが、時宗僧侶の肉親最後の姿、その口伝感謝への思いで大切に守っていた御寺のようです。
五郎兵衛が開発したときから380年間大切に使われてきた四ケ用水(三河田堰)の大改修を記念し、当時の人々は石碑を建立しました。撮影五郎兵衛記念館
歴史的偉業の記念碑
川の恵みで豊かで平和だった三河田村も、今から420年前の慶長年間のことです。村を守り繁栄させてきた地域の3河川が氾濫を繰り返し、とうとう人々は先祖伝来の土地での耕作が不能となってしまいました。
そのとき人々は安全な高台に市川五郎兵衛と協力し、新しい村を築きました。当時、市川五郎兵衛とともに完成させた素掘りの隧道や、水利施設は、380年間そのまま変わらず機能してきました。
しかし昭和34年(1959)のことです。用水施設は地域を襲った台風により甚大な被害を被ってしまいます。人々は昭和36年(1961)から昭和59年(1984)までと、大変長い期間を費やし「四ケ用水」(三河田堰)の抜本的大改修を成し遂げます。
そして関係者は三河田の美田の中央に完成を祝う記念碑を建立し、後世に偉大なこの事業を伝えることとしました。
佐久市四ケ用水(三河田堰)土地改良区土地改良完成記念碑銘文はこちらに⇒(PDF:304KB)
五郎兵衛が開発した三河田堰(四ケ用水)・常木用水・五郎兵衛用水について、長野県土地改良団体連合会からの広報「農の営みをささえる゛信濃の疎水゛はこちら(外部サイト)
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社会教育部 文化振興課
電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535 文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
ファックス:文化振興・文化施設係:0267-64-6132 文化財保護・文化財調査係:0267-63-5322