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第34回 五郎兵衛用水の水力発電所

更新日:2023年7月2日

昭和の画期的大規模改修と発電所

佐久の人々の底力が生んだ画期的な農業用水群
 元和年中(1635~)市川五郎兵衛は、戦乱で荒廃した佐久平復興のため私財を投じ、三河田・常木用水を開発し、続いて寛永8年(1631)、最も施工に苦心した、五郎兵衛用水を完成させます。
 用水工事には困難が絶えず、五郎兵衛は配下の測量・鉱山・土木技術者、また鍛冶・製炭・杣職人など、当時としては考えられるあらゆる職種を総動員して、難工事を竣工させました。
 五郎兵衛の手法は佐久で花開き、土屋雅憲氏の『近世初期信州佐久郡新田開発』(1977年・私家版)によれば、寛永7年(1630)五郎兵衛用水開発から、天保6年(1835)の市左衛門新田まで、数えると50か所もの新田開発が、佐久平で成功しています。 

農業技術者たちの変わらぬ水への挑戦
 江戸時代初期に開発された五郎兵衛用水は、施設の老朽化から、大規模改修計画が近代に入り幾たびもありました。
 しかしあまりの難事業のため、その度に計画はとん挫し、漸く昭和35年(1960)、長野県営農業用水改良事業として、国内では画期的な取り入れ口から5800メートルもの長大トンネル、その中間地点で公平に水を分ける射流分水工、布施地区では布施川河床の下を潜り、さらに矢島山を越えて用水を送るため、国内有数の高低差を誇る逆サイフォン、その吐出部では、想像を絶する超高水圧を解消する急流工の施工と、当時の長野県農業技術者たちは、大変な努力により難工事を竣工させ、それは世界かんがい施設遺産登録の大きな理由ともなっています。
 そして今年の4月からは、水力発電所を稼働させる大きな原動力ともなっています。
 

想像を絶する水圧と水流へ挑戦した技術者たち
 布施サイフォンというのは、密閉された管路へ通水したとき、流入口と流水口の高さが同じという現象を利用した水利施設で、布施温泉西方の片倉山の最高通水地点から、布施地区の布施川河床の下を経て、矢嶋山を越え、五郎兵衛記念館に近い、大池南方で地表に現れるという本管工事で、管路の最低部分では想像を絶する超高水圧、その吐出部では考えられない超高速の水流は、通常の施工では水路施設を何もかも破壊してしまいます。

 最も高度で公平な分水施設
 鹿曲川の頭首工で取り入れられた用水は、隧道で送られ、布施温泉西方高台の隧道施設の中で、御牧ケ原台地へと公平に分水されます。
 この分水にあたり、昭和の技術者たちは、水深や流速により分水量の公平が絶対欠くことがないよう、射流分水という当時としては画期的な分水施設を施工しています。

 隧道本管出口の急流工
 高圧、高速の用水幹線水路の流速を、農業用水の理想とする毎秒4から6メートルという、極めてゆったりとした流速に整えているのが急流工です。

 高効率・長寿命化を達成した発電施設
 本管施設布施サイフォン出口では、想像を絶する水圧と流速のため、昭和の技術者たちはダムの放流口に用いられていると同じ、水の勢いを落とし、水路工作物を傷めないよう、急流工という水路工作物を施工しました。
 令和の時代になり、この急流工が吸収しているエネルギーを、水力発電に有効活用しようという計画が五郎兵衛用水土地改良区、株式会社竹花組、藤巻水力発電株式会社との間で計画され、この4月から発電が始まりました。(根澤茂)

お問い合わせ

社会教育部 文化振興課
電話:文化振興・文化施設係:0267-62-5535  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5321
ファックス:文化振興・文化施設係:0267-64-6132  文化財保護・文化財調査係:0267-63-5322

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