更新日:2026年7月15日
「書」と聞いたとき、いったいどのようなイメージを持たれるでしょうか。多くの人は、小学校や中学校の国語科書写の授業において筆で文字を書いたその瞬間を思い浮かべるかもしれません。しかし、それはあくまでも書の一側面に過ぎず、実は書の表現はもっとバラエティに富んでいます。
一般に書は文字を素材とした(造形)芸術であると定義されますが、「文字を素材とした」という点で、いささか議論の余地があります。その代表的なジャンルのひとつに、前衛書が挙げられます。前衛書は、文字から派生して発展させたものがある一方で、文字を起点としていないものもあります。前者のみが書であり後者は書としないのかというとそうではないでしょう。どちらも書の範疇に入るべきものといえます。では、書とはどういう芸術なのでしょうか。
この命題については、今日に至るまで多くの人々によって様々な意見が述べられ、また議論されてきました。長野県北佐久郡片倉村(現 佐久市)出身の書家である比田井天来(1872-1939)、その息子で書家の比田井南谷(1912-1999)もそれぞれの掲げる理念をもとに多くの作品を世に生み出し、書道界に大きな影響を与えました。
本展覧会では、天来や南谷の作品、そして南谷と同時代に活躍した前衛美術家たちの作品を通して、「書」の本質について再考します。
現代の書表現は、実に多様です。大字仮名や少字数書、一字書、漢字仮名交じりの書など、展覧会に足を運べば多彩な表現に触れることができます。今日、我々が眼にしている現代書表現の展開の中核を担った書家の多くは、比田井天来の弟子でした。
天来は、生涯にわたって多くの弟子を輩出しました。自らが日下部鳴鶴に指導されたように、手本を書かず、古典の臨書による学習をすすめた天来の教育法によって、その弟子の多くはいわゆる「現代書」の担い手となりました。
上田桑鳩(1899-1968)は若くして天来に師事し、昭和8(1933)年に同志と書道芸術社を結成、文字の美的表現を理論的に追求し、前衛書のジャンルを開拓しました。昭和26(1951)年、日展に「品」と見える字に《愛》というタイトルを付して発表して論議を呼び、昭和30(1955)年には同展を脱退、以降はより絵画的情感を孕んだ作品を制作するようになります。日展脱退後の作品には、墨ではなく顔料を用いて書いた「彩書」もあり、近代以前の書の概念を超えた様々な作品を制作しました。
手島右卿(1901-1987)は川谷尚亭、比田井天来に師事し、「象書」を提唱して文字内容と表現の合致を図った作品を制作し、少字数書のジャンルの発展に大きく貢献しました。戦後になって海外へ進出するようになったことで造形美術として書を自覚するようになった右卿は、そうした中で少字数書という表現方法を選択しました。「象書」の代表作である《崩壊》は、日本国内のみならず海外でも高い評価を得ています。
金子鷗亭(1906-2001)は20代で上京して天来に師事し、昭和8(1933)年に「何かあるべき動向か」を『書之研究』誌上に発表して「新調和体論」を唱え、現代書の新たな世界を切り拓きました。戦後は毎日書道展の創設に参画し、自身の提唱する「近代詩文書」を独立した部門として発展させるなど、同展の発展に大きく寄与しています。
桑原翠邦(1906-1995)は鷗亭とともに昭和7(1932)年に上京して天来に師事し、天来が唱導した臨書の方法論をさらに発展させ、作品へと昇華しました。翠邦は最も天来の法を受け継いだといわれ、のちに東宮御所の御進講役を拝命されました。
彼らはそれぞれに「書」に対する理論を構築し、作品として表現し世に発表しました。そしてそれは、その弟子たちへと受け継がれ、今日の書道界においても大きな影響を及ぼしています。
本章では天来の四大弟子と言われる桑鳩、右卿、鷗亭、翠邦を取り上げ、現代書の展開の一端を紹介します。
現代書表現のパイオニアとなる弟子を多く輩出した比田井天来。天来は、いったいどのような書家だったのでしょうか。
天来の作品を見ると、その弟子たちの書風とは大きく異なります。天来の作品には上田桑鳩のような前衛書はなく、また金子鷗亭のような近代詩文書、手島右卿のような文字内容と表現の合致を図った少字数書もありません。しかし、彼らは間違いなく天来のもとでお互いに切磋琢磨し、そこでの学びを根底として、揺れ動く時代のなかでそれぞれの理論や表現を構築していきました。
天来は時代ごとに書風を変化させていますが、その背景には徹底した古典主義がありました。そしてその根底には、「筆意の変化」こそ書の芸術性の根幹と考える、書に対する芸術論があります。
明治30(1897)年に書を本格的に志すために上京して日下部鳴鶴の門に入り、そこで鳴鶴の手本を学ぶのではなく古典臨書の重要性を教えられた天来は、古典を追求する中で「古法(俯仰法)」を発見しました。松田南溟との共同研究により確立された古法(俯仰法)は、後に弟子となる書家たちに大きな影響を与えましたが、こうした筆法への研究の根底にあったのもまた「筆意」への追求だったといえます。そして、大正10年には『学書筌蹄』(全20巻)の刊行を開始し、自身の発見した筆法を広く世に伝えました。また、長く弟子をとらなかった天来は、昭和 4 (1929)年に桑鳩を弟子にとったのを皮切りに多くの弟子をとり、自らが鳴鶴に指導されたように、師風を学ぶのではなく、古典の臨書による学書を推進しました。
本章では天来の作品を紹介し、古法(俯仰法)を発見したことで変化した書風を、時代順に辿ります。そして、天来の考える「書」とはどのような芸術だったのかに迫ります。
天来は、生涯を通じて多くの碑法帖を研究し、また蒐集しました。大正8(1919)年に「書学院建設趣旨書」を起草した天来は、大正13(1924)年に代々木に居を構えて書学院の看板を掲げ、昭和5(1930)年に渋谷区代々木南山谷に書学院を建設しました。この書学院は書の古典の研究を目的としており、天来の蒐集した碑法帖はここに収められました。
天来が書学院の看板を掲げて以降、ここには多くの書家が集りました。昭和4(1929)年に上田桑鳩が天来のはじめての門人となって以降、昭和7(1932)年には金子鷗亭、桑原翠邦が北海道から上京して代々木書学院に通うようになり、昭和8(1933)年には手島右卿が高知県より上京して天来に師事するなど、年を追うごとに弟子が増えていきます。彼らは書学院で天来の書風を学ぶのではなく古典を学び、それによって後にそれぞれの書風を確立するに至ったといえます。鳴鶴から天来に伝わり、あるいは天来によって蒐集され書学院に収められた碑法帖は、彼らの学書を支えました。
そして、昭和14(1939)年に天来が歿した後、書学院を継承してこれらの碑法帖を管理したのが、次男の比田井南谷でした。南谷は幼少期より多くの碑法帖に囲まれて育ち、時には天来に指導を受けました。南谷の学書を支えたのもまた、書学院に伝わる碑法帖でした。
また、これらの碑法帖の影響はこれに留まりません。南谷が書家として活躍するなかで、昭和34(1959)年11月にサンフランシスコのルドルフ・シェーファー図案学校に招聘され初渡米、この際に古碑帖等約千冊と拓本数十点を持参しました。これらはサンフランシスコの芸術家たちの興味を惹き、翌年に南谷は「個展および中国・日本の数十種の拓本展」をサンフランシスコ郊外のデヴィッド・コール・ギャラリーで開催、ニューヨークの新聞にも取り上げられるなど大きな反響を呼びました。
本章では、天来や南谷、そして書学院に集った書家の制作を支えた書学院に伝わる碑法帖を紹介します。併せて、書学院関連資料や天来、南谷の臨書を紹介します。
比田井南谷は、天来と小琴の次男として生を受けました。書の大家である父と、仮名作家である母のもとに生まれた南谷は、書が身近にある環境で育った一方、幼少期には書に対してほとんど興味を抱いていませんでした。
大正13(1924)年に府立第六中学(現 都立新宿高等学校)に入学、古典音楽に対して強い関心を抱くようになった一方、天来に書の勉強をするようにと言われ、勝手に法帖を持ち出して臨書するうちに、書にも興味を抱くようになったといいます。中学卒業後は東京高等工芸学校印刷工芸科(現 千葉大学)へ進学、印刷技術と写真製版を学びました。また、入学と同時にヴァイオリンを本格的に学び始め、ヴァイオリン奏者を志しますが、天来に反対されたためこれを断念し、卒業後は参謀本部地測量部に就職しました。しかし就職の翌年、天来の後継と目されていた兄が病死したことでその任を南谷が担うこととなり、昭和14(1939)年の天来の逝去後、書学院を継承しました。本格的に書の世界に身を置くようになった南谷は、書表現を模索するうちに非文字性による「心線」の表現へと辿り着きます。昭和23(1945)年に制作された《心線作品第一 電のヴァリエーション》はその代表的なものです。これは、当時の書壇に大きな衝撃を与えました。
南谷の書の特徴は、「心線」による表現を追求した点にあります。「東洋の書は、美しい筆跡以上のものである。それは文字の意味によってではなく、書かれた線の意味によって評価される」という思想を抱いていた南谷にとって、「線」を鑑賞する妨げともなる「文字」の意味は不要でした。そして「書の芸術的本質は鍛錬された筆線による表現にあるので、用材は単なる媒体にすぎない」という考えから、南谷は伝統的に用いられていた従来の文房四宝にとらわれず、様々なマチエールを制作に用いました。南谷は明確な理論を形成し、それを背景に戦後の前衛書ブームを牽引したのです。
前衛書を制作する一方で、1970年代後半以降、南谷は漢字一文字を書いた作品を相次いで発表します。線に情感を孕ませて制作されたこれらの作品は、非文字による前衛書によって心線の追求をした南谷だからこそたどり着いたひとつの境地ともいえるかも知れません。
本章では、南谷の前衛書の作品と「文字」による作品の双方を紹介します。それらの作品や南谷の書に対する理論から、南谷の考える「書」の本質を考えます。
昭和20(1945)年に《心線作品第一 電のヴァリエーション》が制作され、翌年に世に発表されて以降、前衛書の分野は発展していきました。そしてその担い手となった書家の多くは、書家同士だけではなく日本の抽象絵画の先駆者として知られる長谷川三郎や吉原治良と交わり、互いに影響を与え合いました。また、そうした交流は日本だけにとどまらず、海外の芸術家とも交わり、日本の書は海外において抽象表現による作品を発表していた作家にも大きな影響を与えました。
その代表的な一人にピエール・アレシンスキーがいます。パリで書に出合ったアレシンスキーはとりわけ日本の前衛書道の奔放さに共感を覚え、昭和30(1955)年に来日して書家・森田子龍らと交流し、映画「日本の書」を制作しました。ピエール・スーラージュもまた書に影響を受けた作家の一人です。子龍の刊行した書道雑誌『書の美』において長谷川に「落ち着いた謹厳な楷書の世界」と評されたスーラージュの作品には、多分に書の影響が感じられます。そして、比田井南谷もまた、アド・ラインハートやクルト・ゾンダーボルグらに代表される多くの作家たちと交流しました。彼らは南谷が昭和39(1964)年にニューヨークで開催した書道教室にも参加しています。ジョアン・ミロもまた、書の影響を受けた作家といえるでしょう。映画「日本の書」を見て書に関心を抱いたミロは、昭和41(1966)年に個展の開催を契機に初来日し、以降のミロの作品には書のにじみやはねなどの影響が感じられる太い線が頻繁に用いられるようになります。非文字による前衛書と、線のみで構成される前衛美術。「書」か否かの境界線は、果してどこにあるのでしょうか。
本章では、南谷と同時代に活躍した抽象表現による作品を発表していた作家の作品を紹介します。書の影響をも感じられる彼らの作品を通して、「書」という芸術の本質について再考します。
2026年9月12日(土曜日)~11月3日(火曜日)
9月14日(月曜日)、24日(木曜日)、28日(月曜日)
10月5日(月曜日)、13日(火曜日)、19日(月曜日)、26日(月曜日)
午前9時30分から午後5時まで
※9月12日は午前10時15分開館
佐久市立近代美術館 油井一二記念館
※20名以上の団体は( )内の金額適用
佐久市、佐久市教育委員会
株式会社天来書院
一般財団法人毎日書道会、エフエム佐久平、株式会社芸術新聞社、株式会社匠出版、株式会社二玄社、株式会社日貿出版社、株式会社日本習字普及協会、株式会社美術年鑑社、株式会社毎日新聞社、佐久ケーブルテレビ株式会社、佐久市民新聞、佐久市立近代美術館友の会、書藝文化新社、美術新聞社、游墨舎ちゃんねる
座談会「書とはいかなる芸術か」の申し込みは、9月1日(火曜日)午前9時から佐久市LINEおよび電話(0267-67-1055)で申込受付を行います。先着順に受け付け、定員に達し次第、受け付けを終了します。
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